こんなにも熱を孕んだ思いなど、いっそ熔けてしまえばいいのに。



欲しい欲しいとごねて喚いて散々困らせた果てに作らせた合い鍵を使い、高杉は銀八の家の扉を開けた。
家主のいない部屋はしんとして、光源が窓の外の街灯のみのため闇が満ちていた。
「…お邪魔します」
誰も聞いていないのはわかっていながら、小さく挨拶を呟いて靴を脱ぎ、揃えて上がり込む。
荷物を部屋の隅に置いて電気を付ける。次いでカーテンを閉めた。
ようやく部屋のなかを見渡す。
性格の割にこざっぱりした部屋は高杉がわざわざ片付ける必要がなく、台所と洗面所も覗いてみたが洗い物も洗濯物も溜まっていなかった。
「………」
やることがなく、高杉は小さく唇を噛んだ。
部屋のなかでも吐息が凍り付く程寒かった。
今だに上着を着込み、マフラーを巻いたままの自分とこれから帰ってくる人のためにも暖房を入れようかとこじんまりとしたストーブに目をやる。
だが今ここで暖房器具を付けたらその電気代や石油代を払うのは自分ではなく家主で、それを思うと付けてもいいものかと高杉はしばし立ちすくんだまま考え込んだ。
カンカンと金属の階段を登る足音がする。高杉の視線がストーブから廊下に向けられた。足音は近付く。カウントダウンのように一歩ずつ確実に。
家の前で止まった。ほんの少し間が開いて、それからドアが開いた。
「ただいま」
特別なんの感情も含まれていない声は高杉を拒否していなければ、受け入れてもいない。そんなものだった。
「……おかえり」
「おーおー、いらっしゃい。まーた来てんのか。今日は早く帰れよ」
「泊まる」
「………」
簡潔な高杉の言葉に銀八は眉を寄せる。
だが小言を並べることはなく荷物を置いた。
「何おまえ、今来たの?」
「まぁ、今さっき」
「ストーブ付けろよ。寒いだろ」
「………」
言われて高杉はストーブの電源を押した。ストーブは低く呻いたがまだ熱を生み出してはくれない。
銀八が当たり前のように台所に向かうので高杉は見送りかけたが、一瞬遅れて我に返りその後を追った。
「俺が…」
「あー、いいいい。今日は冷蔵庫のもん使っちまわないとダメになるので作るから」
「………」
冷蔵庫から迷いなく食材を取り出す姿に高杉はもうそれ以上何も言えず、大人しくリビングに戻った。
机に座って溜め息を吐く。机に頬を寄せれば冷たさが広がった。
銀八のことを好きだと言う高杉の気持ちを、銀八は気のせいだと、気の迷いだと言う。本気だと訴えても、銀八は聞く耳を持たない。やれ教師と生徒だの、男同士だのと世に満ちた『正論』を口にする。
世間体を気にするようなつまらない男だと思わなかったと感情に任せて罵れば『幻滅したか?』といびつに笑うから、それがまた頭に来る。
そんなことで嫌いになれるなら、最初から好きになったりしないのに。
「………」
高杉は身体を起こして台所に立つ銀八を見た。
初めてこの家に押しかけたとき、銀八はこれ以上ないほどにはっきりと迷惑だと高杉に告げた。
日本人なのだからもう少しオブラートに包んでくれたっていいのにと高杉が思うほどに縋る余地がなかった。
銀八はなんでも出来る。基本的に器用な人間だ。銀八は一人でも生きていける。
でもそれでは高杉が困る。何か、何か理由を見つけないと側にいさせてくれないのなら何としてもこの家に行く理由を作らなければならなかった。
銀八がもっと駄目な人間だったら、料理でも洗濯でも言い訳を付けられたのに、炊事洗濯何もしてこなかった高杉より上手いのだからどうしようもない。
なす術がない。
「高杉ー」
「…、何だよ」
声をかけられて、高杉は茫洋としていた世界の焦点を合わせた。
銀八は高杉が部屋の隅に置いたスーパーの袋を拾い上げ、中を覗き込みながら尋ねた。
「この人参とジャガ芋、使っていいか?」
「好きにしろよ」
「カレールー入ってら。何、今日の夕飯はカレーだった?肉じゃがはもう諦めたわけ?」
「別に。たまには他のだっていいだろ」
「ふーん。まぁいいけど」
「………」
高杉は不満そうに唇を尖らせたが、銀八は平然と材料を手にシンクに向かった。気付いていないのか、気づかないふりをしたのか。
恐らく後者だと高杉は考える。
手料理と言えば肉じゃがだと前に聞いた気がして作ってみたが作れど作れど上達しない。
『カレーなら誰でもうまく作れるっスよ』
というアドバイスを実践しようと思ったわけだが、銀八にはどうでもいいことらしい。
分かっていたことだ。気にする方が馬鹿なのだと高杉は自分に言い聞かせた。
銀八の料理が並ぶ。高杉が作るよりも遥かに見目もよき美味しい。
「………」
結局この日は高杉にやることはなく、家よりも狭く深い風呂に浸かり高杉は溜め息をついた。
迷惑をかけている自覚はある。わかっている。それでも側にいて、何かをしたいのだ。
その理由は献身でもなんでもない。自分を好きになって欲しい。ただそれだけだ。
音を立ててお湯に潜る。鼓膜に届く水温が心を静めていく。同じように、この思いも静めてくれればいいのに。水面から出て息をついた。
この胸の中に滾る熱で内側からきっと熔けてしまう。音もなく忍び寄る崩壊の予感に聞こえない警鐘が聞こえる気がした。自分が崩れ果てるその時、彼はどんな反応をするのだろう。
そんなことをぼんやりと考えながら、高杉はそっと目を閉じた。



(いつか来る破滅のときを夢見てる)



(その時は、どうか一緒に)