ちゃぷんと反り立つ崖に当たったお湯が音を立てる。
銀八は広くないけれど深い浴槽のなかで溜め息をついて湯気の霧で霞む天井を見上げた。
狭いボロいへぼいと高杉がケチをつける銀八の住まうアパートの風呂は追い焚き機能がついていて、銀八の好む温度は熱過ぎると文句を付ける高杉のため温めに沸かし、高杉が入った後に沸かし直して銀八が入るのが常で、今日もそうだ。
『熱い風呂が好きなのは年寄りの証だぜジジィ』
そう言い放ってくれた小僧にガキと言い返してやったのは何時だったろう。
既に濡れた浴室は僅かに開いている窓では換気など満足に出来ず、湿気が篭っている。
「オイ銀八ぃ」
不意に曇りガラスの向こう、映り込んだ人影が口をきいた。
「何」
声が反響する。視線を天井から離して声の方に向ければ何やらごそごそと動いていた。
「洗濯物、布団の上に放置してあったの含めて此処にあんので全部かよ」
銀八の感覚で少しばかり散らかった部屋は高杉の感覚で至る所に洗濯物が落ちている。
だから洗濯をする際はそれら全てを拾い集めるという事前の一作業が必要だ。
「あー…、今日ガッコから白衣持って帰ってきたからそれも」
「んだよ、出しとけよ。帰ったらすぐ洗濯物は出せっつってんだろこの天パぁ。マジでそのうち毟るぞ」
そんな文句を言いながら、影は消えた。
「………」
おまえは俺のお母さんですか。
そんな文句を言うタイミングを逃し、銀八はまた天井を見上げた。故意に瞬きを繰り返して、ずるずると風呂に沈み込む。
鼻まで浸かって20秒。苦しくなって息をした。また水が音をたてる。
「今度こそこれで全部か?」
戻ってきた影が再び問い掛けてきた。息を整えながらそうだと答えた。
ごそごそと動く気配がする。洗濯の準備をする高杉の影を見つめ、銀八はなんとなく声をかけてみた。
「なぁ高杉ー」
「あー?」
「風呂、入るか?」
「はァ?」
たった一声のイントネーションで、ガラスの向こうにいる高杉の表情を想像した銀八はなおも続けた。
「たまにはいんじゃね?そんなのも」
「たまにはって…。…ヤだし、俺もう風呂入ったし、何よりてめぇの風呂クソ熱ィ」
呆れたような声は最初だけで、あとは軽くあしらうようなものだった。
別に銀八の方もただなんとなく言ってみただけで、どうしても一緒に入りたいなどとはカケラも思ってはいない。
思ってはいないが、これまたなんとなく食い下がってみた。
「んだよ、ったくお子ちゃまはよー。ほら、水入れてやっから」
言いながら銀八の頭はどうやって高杉を説得するかではなく別のことを考えていた。
どうして自分はこんなことを言っているのだろう。飲んでもいないのにほろ酔い気分だ。もしかしたら浴室に満ちている熱を孕んだ蒸気に当てられたのかもしれないな、などとぼんやり考えながら、駄々っ子のように高杉に訴え続ける。
不意に扉が開いて、乾いた冷たい空気が這うように流れ込んできた。
ぼやけた影でしかなかった高杉がくっきりと現れる。扉に寄り掛かり、浴槽にもたれている銀八を見下ろしてニィと笑った。
どこと無く楽しそうで、銀八の目には機嫌が良さそうに見える。
笑みを形作っている唇が動いた。
「そんなに俺と風呂に入りてぇか?」
「入りたいって言ったら?」
「変態。スケベジジィ」
「うーわ、意識する方がエッチなんですー。何おまえ、欲求不満なんですかムラムラしちゃってんですか全くもう若いねー」
「まぁな。何てったって十代なもんで。2Rでギブするようなジジィとは違ェんだよ」
「はァ?身体に差し障りねぇように気ィ使ってやってんだよ。何おまえ誘ってんの?今度覚えとけよこのガキィ」
「はん、口では幾らでも言えらァな」
小馬鹿にしたように鼻で笑う高杉に心の中で何かが燃えるのを感じる一方、本当に逆上せそうだと頭のなかで警報が鳴り響いているのも気付いていた。
そろそろ出ないとマズイという己の内なる声に従い風呂から上がれば、直ぐさま高杉は洗濯機のホースを湯舟に入れた。
邪魔だからと出たばかりの浴室に押し戻された銀八は冷たいタイルの上に立ち張り付いたお湯を拭きながら、洗濯機のタイマーをセットする高杉を見ていた。
指折り時間を数える様子が可愛いなどとぼんやり思いながら乱暴にタオルで髪を混ぜる。
「ん」
「ん?」
急に手を伸ばされて、何事かと目で問いかければ今銀八が使っているタオルを寄越せと高杉は言う。それも洗うのだと言われ、後で入れておくと返し、寝巻を着てタオルを首にかけて脱衣所を出た。
「てめぇのことだから、それその辺に置きっぱにして洗濯機に入れんの絶対忘れるぜ。賭けてもいい」
「おまえ俺のことどんだけダメ人間だと思ってんの」
「そんくらいのダメ人間だろ。実際」
「まぁ否定はしねぇけどな」
「今度の月曜資源ゴミだから、いらねぇジャンプ纏めとけよ」
「へぇへぇ」
「ホントにわかってんのかよ」
ぶつくさと文句を言いながら高杉は銀八の後ろをついてくる。銀八は台所に向かったが、高杉はリビングに行った。
「麦茶飲むかー?」
麦茶の入れ物を冷蔵庫から取り出し問いかければ「飲む」と返事がある。
二人分のグラスを机に乗せ、麦茶を注ぎ高杉を見れば高杉はまだやらなければならないことに頭を巡らせている。
そんな高杉を銀八は見つめ、ぼんやりと考える。
炊事洗濯掃除に関して生きていくのに困らないだけの技量はある。伊達に一人暮らし歴が長いわけじゃないのだ。足りないものなどなにもない。けれど。
「俺にゃあ、おまえが必要なのかもなァ…」
「…は?」
呟いた言葉は高杉の耳にしっかり届いていて、キョトンと目を丸くした高杉は驚いた小動物のように動きを止め銀八を見つめた。
そんな高杉を見、なんでもないと言ってやれば高杉は眉間にシワを寄せ唇を尖らせる。
ぷいと背けられた横顔がなんだか照れているような、どこと無く嬉しそうなものだったので、つられるように銀八も頬を緩ませた。