二人きりの教室で、銀八のやる気のない声を遮るように、小さなくしゃみがひとつ。
「…ぃっくしゅ、…ぅ゛ー」
「………」
銀八はその声ともつかぬ見つめてた音に、思わず音源である高杉に視線を向けた。
高杉はくしゃみの瞬間に背けた顔をまたノートに向けて鼻をすすっていた。
「………」
「? センセー?」
なかなか銀八が途切れた言葉のその先を始めようとしないので、高杉が訝しがって顔をあげた。
「ん?あ、あぁ、えーっと…」
高杉を見つめて何も考えていなかった銀八は何処までやったんだっけと教科書の文字の羅列に視線を滑らせた。
あ、此所からだと思った瞬間また似たようなくしゃみが聞こえた。
「…っきしゅ…、…ぅ゛ー」
あ、やべ鼻垂れる、と鼻を押さえてティッシュを寄越せと言ってくる高杉に、銀八は昨日道でもらったばかりのポケットティッシュを高杉に渡した。
受け取った高杉は片手で器用に開けて鼻をかむ。
「あ゛ー…」
鼻声で小さな唸り声をあげた高杉の鼻は質の悪いティッシュのせいで赤くなっている。銀八がなんとなく見つめていると、高杉はまたくしゃみした。
「…ぅー…」
「………」
銀八はくしゃくしゃにしたティッシュを机の隅に寄せた高杉をずっと見守りながら、おもむろに口を開いた。
「おまえそれわざと?」
「あァ?」
今度こそ勉強に戻ろう、とシャーペンを手に取った高杉は銀八の突然の問いに眉を寄せた。
銀八は頬杖をついたまま平然と問い掛けを補足した。
「くしゃみのあとのその、『ぅー…』ってやつ」
「は?言ってねぇよんなこと」
何言ってんだと機嫌を傾ける高杉を、もしかして無意識?と思いながら銀八はやはりじっと見つめ続ける。
その視線に居心地が悪いのか、高杉はわずかに落ちつかなそうな色をその目にのせた。
「んだよ…」
「おまえってさァ」
言いながら銀八はふいと高杉から視線を外すと教科書の指先で示しておいた箇所を見た。
「絶対女子に『高杉くんのくしゃみ可愛いよね』『だよねやっぱそう思うよね』とか言われてるタイプだよね」
「はァ?馬鹿じゃねぇかてめー」
「次んとこ主語なんかわかる?」
「え?あ」
眉間にシワを寄せた高杉に構わずに、なんの脈絡もなく一人補習に戻れば高杉の視線がぱっともう2学期も半ばなのに綺麗な自分の教科書に移る。
文脈を追って主語を出そうとする高杉のシャーペンの先を追いかけながら普段となんら変わらぬ口調で言った。
「ってかよー、オメーばっちり風邪引いてんじゃん。だから言ったろうが。早く服着ろって」
「引いてねぇ。単に噂されてんだ。俺ァ天性のカリスマ性があっから」
「こんな言葉知ってるかー?くしゃみ一回男が噂、くしゃみ二回目女が噂、三回以上はただの風邪ってな」
「知るかよ。ってか邪魔すんな。気が散る…、あーもう意味わかんね」
「そこ前んとこで場面変わってっから。殿が式部のねーちゃんたちと別室行ったろうが」
「はァ?………ぃっきしゅ…ぅー…」
「ほらまた言った。ぅーっつった」
「言ってねぇっつってんだろ。殴んぞ」
「校内暴力反対〜」
銀八は鼻をすすりながら間違って挿入した主語を消しゴムで消していく高杉を視界に入れながらその先の文章に目を通す。
「ほれあと3行。後ろの4行はどうでもいいから」
「あーもうめんどくせェ」
高杉はそう言いながらもシャーペンを唇に当てて残り3行に目を通していった。



すっかり暗くなった帰り道を銀八の原チャリが行く。
「…っくしゅ…ぅー…」
「ったく。今日は暖かくして寝ろよー。風邪こじらせっとめんどくせーから」
後ろから聞こえて来たくしゃみに今からめんどくさそうに顔をしかめる銀八を高杉は鼻をすすりながら見上げてニヤリと笑う。
「こじらせたらセンセー看病してくれるか?」
「しねぇ。絶対ェしねぇ」
そうきっぱり言い切った銀八に対し、高杉もその答えを予測していたらしい。ケラケラと笑った。
「酷ェなァ。俺が一人寂しく部屋でゲフゲフいってても心配じゃねーんだ。あーぁ愛が足んねーなァ」
「バッカ。オメー、これで看病してやるなんっつったらわざとこじらせんだろ。おまえそんくらい平気でやんだろ」
「…ちっ」
「ねぇちょっと何今の舌打ち。バレたかってこと?ねぇ」
他愛ないことを話している間も高杉のくしゃみは止まらない。
ぐしぐしと鼻をこする高杉を気にしながら、銀八は溜め息をついて夜道に煌々と輝く自販機の前で止まった。
金を入れてから指先を彷徨わす。
「えーっと…コーヒーは、微妙か。紅茶もなぁ…」
「?」
ぶつぶつ呟いて並んでいる商品のサンプルを右に左に眺める銀八を高杉は不思議そうに見ていた。
「これでいっか」
銀八はいつもココア等の甘いものしか飲まないのに、ピッと押したのはホットの烏龍茶だった。
「ほい」
「?」
差し出されたものを思わず受け取ってから高杉は目でなんのつもりか問い掛けたんだ。
「それ飲んで暖まって今日は早く寝ること。以上」
「………」
「もうこれ以上俺のしてやれるこたァねーぞ。看病はしねぇから絶対ェこじらせんなよ」
矢継ぎ早に言葉を並べられて高杉は一瞬キョトンとした表情を浮かべたが、ぷっと笑い出した。
「やーさしいなァセンセーは」
「やーさしいだろォ。愛に満ち溢れてんだろォ。だからこじらせんなよ」
また原チャリにまたがりエンジンをふかす銀八に高杉は憮然としながらも腕を回した。
「…なんでんなにこじらせんなこじらせんなっつーんだよ」
「オメーは風邪引くと1週間は寝込むからだよ」


昔、松陽の塾に毎日のように顔を出していた高杉が咳をしていた翌日からぱったり1週間以上顔を見せなくなったことがあった。
心配した松陽が桂に高杉はどうしたのか聞いたところ『ずっと風邪で寝込んでる』と桂は答えたのだ。


「またんな古い話、よく覚えてんな」
「年寄りは昔のことをよく覚えてるもんなんだよ」
「ふーん」
一度懐にしまった缶を開けて高杉はちびちび飲み始めた。
「あ、おまっ…ちょっ、絶対ェこぼすなよ」
「多分なァ。ま、安全運転心掛けろや」
「ちょっとちょっとちょっとォ、恩を仇で返すってどういうことよ」
「愛があるから大丈夫だろォ」
「いや意味分かんないからねそれ」
高杉は楽しそうに笑うと銀八の背中に耳を押しつけた。
「暖けェなァ」
「…そりゃあ良かった」
ぎゅうと腕に力を込めた高杉の温度を背中に感じながら、銀八は冷たい夜の空気を切り裂いていった。