昨年より静かとはいえ蝉時雨がアパート中を包み込んでいて、網戸にしてある室 内に入り込んでくる。 そんな小さなアパートの一室で絶え間無く汗を流す二人がいた。 「あー…ちー…」 扇風機の風でビブラートの聞いた高杉の声に銀八は眉を寄せる。 「うっさいんだけど。っつかそこ退けって。何首固定してんのねぇちょっと」 この部屋唯一の冷房器具の前にどっかりと座り込まれ、銀八は文句を並べるが高 杉は聞く耳を持たず銀八に視線を向けるに届けた。 「仕方ねぇだろあっついんだから。どいてほしけりゃクーラーつけろ」 「つけねぇよ。夏は暑いもんだ。なんのために四季のある国に生きてんのおまえ 。とりあえず退け」 「生まれちまったからこの国で生きてんだよ。おまえは暑さに耐えてろや。俺は 扇風機の前此処にいる」 あー、と扇風機に向かって無意味な声をあげる高杉の靡く黒髪を見つめながら銀 八はうちわで自身の銀髪を揺らす。 吊してある風鈴は沈黙を守り、涼とは正反対に位置する蝉の声ばかりやけに大き く聞こえた。 「あっちー…マジあっちー…。本気ねーわ、この暑さ。溶けるだろコレ。…あっ ちー…」 「………おまえね」 一人で扇風機の風を独占しておきながら暑い暑いとうるさい高杉に銀八はイライ ラを隠さずに唸るように言った。 「さっきからうっせーんだけど。何、なんなの、おまえは暑いしか言えねぇのか 」 「言えねぇ。今はそれしか言えねぇ。あーつーいー」 「もう帰れおまえ」 「ヤダ」 きっぱりと言い放たれて銀八は口をつぐむが高杉はその後もダラダラと暑さに対 する文句を並べ続けている。 「暑いっつーから余計暑いんだっつの。寒いっつってみ?ちったぁ涼しくなるか もだろ」 「馬鹿じゃねぇの」 「あ、今馬鹿にしたろ。世の中にはなぁ、言魂っつーもんがあってな」 「あっても気温は変わんねぇんだよ馬ー鹿」 「うっわすっげムカつくんですけど」 「あー…あちィ…」 扇風機の前にいる高杉より、全く風に当たれない銀八の方が余程暑いというのに 。繰り返される言葉に銀八はうちわで扇ぐ手を止めずに言った。 「おまえ次暑いっつったらコンビニでアイス買ってこいな。パピコで許してやる 」 「はァ?なんでだよ」 「なんでもだよ。言ったろ、おまえが暑い暑い言ってるとこっちまで暑くなんだ よ、洗脳されんだよ俺も」 「てめぇだって言ってるじゃねぇか」 「おめーより少ないよ」 「じゃあそっちも言ったら買いに行けよ。バイク使うのナシだかんな」 「あー、いいぜ」 売り言葉に買い言葉の応酬の果てに、ぴたりと会話は途切れて室内は蝉の泣き声 とテレビの音が舞うだけになる。 あまりにも不自然な沈黙に銀八が口を開いた。 「オイ」 「んだよ」 「急に黙り込むなよ」 「無理。だって口開いたら言っちまうもん。てめぇが喋れ」 「俺も無理。ぽろっと言っちまうね」 「ほれみろ」 言葉少なに会話を打ち切ってまた黙り込む。いつもなら多少の静寂もなんてこと はないが、今日は何故だかやけに気になってお互い落ち着かない。 今度は高杉が口を開いた。 「…部屋のなかで熱中症になって倒れる奴が多いらしいぜ。テレビが言ってた」 「あー、らしいな。高杉はよく知ってんなァ」 「だからクーラーつけろや」 「無理。だって古くて燃費悪ィから無駄に電気代使うんだよ」 「ケチ。買い替えろよ。エコなんとかしろ」 「んな金何処にあんの」 「知らね」 「………」 やはり会話は続かずにすぐに途切れ、何度目かわからない沈黙にまた会話の種を 捜す。 だがそれが芽を出す前に銀八は腰をあげ空になったグラス二つを持ち台所に消え た。 それを目で追った高杉だったが、すぐに顔を逸らし扇風機と向き直った。人工的 な風に目をつむる。 「おまえ首振らないならせめてリズムにしろよ。扇風機浴びつづけんのって身体 冷えすぎんだって」 「こんな涼しくない風で冷えるかよ」 「冷えるんですー。おまえ首振らせるかリズムにしないなら消すからなー。コン セント抜いてやるからなー」 「あァ?卑怯もの」 「ホレ、はい」 氷入りの冷たい麦茶の入ったグラスを差し出され、高杉はそれを受け取った。 カランと涼やかな音が響く。 「麦茶かよ。コーラ寄越せコーラ」 「馬鹿、麦茶には身体を冷やす作用があるってこないだテレビが言ってましたー 」 「…なんかすげぇムカつく」 「まぁまぁんなわけで飲みなさないよ。おまえに熱中症とかで倒れられたらめん どくせーから」 「めんどくせーのかよ」 「めんどくせーよ」 そう言ってグラスを煽ると直ぐに空にして机に置いた。 いつの間にかリズム風になっている扇風機が単調だった音に強弱を付ける。 「…アイス食いてーな」 「あぁ、食いてーな」 「俺、コンビニアイス食いたい。189円のやつ」 「おまっ、この贅沢もの。ガリガリ君にしとけや」 そんなやり取りを交わしながら、銀八は空になったグラスを持って立ち上がり、 高杉は扇風機の電源を切った。 そして二人して呟いた。 「「あー…、あちィ」」 |