あぁもう心臓は一生で決まった回数しか動かないのに。



ある時は日常のふとした瞬間に───。
高杉はぼんやりと黒板の前に立つ銀八を見つめていた。声は耳に入っているがそ の内容はちっとも頭に入らない。
こんなとき銀八の言葉は意味を失いただの音へと成り下がる。
それでも高杉はただひたすらに銀八を見つめている。まるで世界に銀八しかいな いかのように、時折瞬きを繰り返しながら視線を固定して動かさない。
銀八は教室の生徒達を見回している。そして不意に目が合ったその時、高杉はぱ っと顔を背け目を逸らした。
それから少し俯いて窓の外に目を向ける。それに深い意味は無い。銀八を目に映 さなければその視線は何処に向けていてもいいのだ。
高杉の心臓が高鳴る。顔が熱を持った。白い頬に赤みがさす。
自分から目が合わないかと銀八を見つめるくせに、目が合うともう見ていられな い。ドキドキして顔が熱くなる。
馬鹿みたいだ、こんな自分が恥ずかしい。正直そう思う。だが思うほど比例して さらに顔が赤くなる悪循環。
高杉は顔を隠すように机に片肘を突いて腕に顔を乗せた。



またある時は何気ない動作で頭を撫でる手に───。
「何勉強してんの」
テーブルで教科書とノートを広げている高杉に風呂上がりの銀八は問い掛ける。
側に立ち覗き込んだ。
「英語」
高杉は銀八を見ずに答える。時折電子辞書を叩けば「便利な世の中だね」と立っ たまま銀八が言う。
「…一応聞くけど古典は?」
「しねぇ」
「ふーん」
古典の教師を前に高杉がきっぱりと言い放ったにも関わらず、言われた方は特別 気にした様子もなくただ高杉が考えているのを立ったまま少し前傾になって眺め ている。
「…気になんだよ」
「そ?」
作業を止めてじっと睨めば銀八は体を起こして高杉の側を離れた。高杉に断って からテレビを付ける。
高杉はそんな銀八の後ろ姿を見ていたがやがてまた英文に向き合った。単語を調 べながら和訳していく。
ふと教科書に影が落ちて、見上げればまた銀八が高杉の勉強を覗き込んでいた。
「だからなんだよ」
「別に。やってんな〜と思って」
俺もう英語なんざさっぱりわかんねーと言い切る銀八に高杉は邪魔だと追い払お うとする。
足を押された銀八は少しバランスを崩したが持ち直し、ハイハイと適当な返事を した。
「ま、頑張れ」
そう言って高杉の頭を撫でた。それは撫でるというよりも無造作に髪をかき混ぜ たようなものだったが、たったそれだけの動作に高杉は一瞬固まり、その手を振 り払うことを思い出した時には銀八はもう高杉の側を離れて台所に向かっていた 。
高杉はしばらく銀八が消えた台所への戸口を見つめて、それからぱたりと頬をノ ートに押しつけた。
顔が熱い。心臓が早鐘を打っていてとてもじゃないが勉強なんて出来ない。
ぐしゃぐしゃにされたままの髪を直すことも思い付かなかった。ゆでだこのよう に赤くなったまま高杉はしばらくそうしていた。
ノートの冷たさが高杉の頬に染み込み、頭も少し冷える。
近過ぎて焦点が合わずぼやけている自分の文字を何となく見つめた。



死んだ魚のようなやる気のない目なのに目が合ったその瞬間には酷く真っ直ぐで まるで射抜かれたような錯覚に陥ったとき。
無造作で少し乱暴とも言える力で髪に触れてくるのに本当は少しも傷つけないよ うにと気遣ってくれてるその手が思いがけず大きいことに気付いたとき。
そんなとき高杉は一々反応し、胸を高鳴らせ頬を赤く染めている。
高杉はそんな自分をちゃんと自覚していた。なんでこんなにドキドキしなくては いけないんだと思っている。
けれど自分の意思とは関係無く心臓は速度を早め耳まで赤くなる。



「…馬鹿みてぇ…」
思わず呟く。
「何が?」
「?!」
予期していなかった返答に高杉は弾かれたように体を起こしそちらを見た。
銀八が缶ビール片手にこちらを見ている。
「な…」
「っつか勉強してねーじゃんサボってんじゃん。ったくしゃーねーなァ、集中力 なさすぎ」
言いながら銀八は高杉の右横にどっかりと座り込み、缶ビールをあけた。
高杉は何となくそんな銀八の横顔を、輪郭のラインを見つめたがまた心拍数が上 がりかけたので唇を噛み、また机につっぷした。
しばらくテレビの音だけが響いた。スポーツニュースで野球の順位表が告げられ ている時、銀八はテレビを見ながら高杉に問い掛けた。
「なぁ高杉ー」
「んだよ」
高杉も机に頬を押しつけたままで銀八を見ていない。
「おまえなんですぐ目ェ逸らすの?」
「…は?」
言われて高杉は頭だけ動かし、顎を机に乗せたまま銀八を見上げた。銀八はまだ テレビに視線を向けていて、手にしている缶に口をつける。
喉仏が動くのを高杉が見つめていると、不意に銀八がこちらを向いて思わず視線 をあげてしまったため目が合った。
高杉は直ぐさま視線を逸らして顔も背けようとしたが、それは叶わなかった。
「ほらまた」
銀八の声に中途半端な位置で高杉は動きを止める。
「すぐに目ェ逸らす」
「………」
「なんで?」
普通の声なのにまるで詰問されているような錯覚に陥って高杉は必死で言葉を探 した。瞬きを繰り返す。
「………」
少し俯いて黙り込んだ高杉の口許は堅く閉ざされていて、それを見た銀八は缶を 置くと高杉に向き直った。
「高杉」
「………」
「こっち向いて」
「………」
硬直したまま動かない高杉に手を伸ばして、銀八はゆっくりとその顔を上げさせ た。
目と目を合わせる。
その目が酷く困っているように見えて、銀八は思わず苦笑した。
「んな顔しなくても…。別にとって食やしないよ」
そう言ってこつんと、銀八は高杉と額と額を合わせた。
その時高杉はずっと目を開けていた。吐息すら交わる程に互いの顔が近付いて、 銀八は目を閉じていたが高杉は開けていた。
睫毛の数まで数えられそうな距離に、一瞬で熱が上がったのを自覚した高杉は熱 が銀八に伝わるのを恐れ、思いきりその体を突き飛ばした。
「…っ!」
「うぉっ」
無防備な状態での衝撃に銀八は派手に倒れそうになるのを咄嗟に手をついて支え る。
その隙に高杉は銀八に背を向けるようにして横になった。腕で顔を隠して、完全 に守りの態勢に入る。
心臓が破裂しそうだった。喉は痛くないが全力疾走した後のような感覚。うるさ すぎて銀八に聞こえてやしないかと不安になっても、体を丸めて小さくなること しか出来ない。
そんな高杉を銀八は見やる。
「…たーかすぎー?」
「うっせぇ馬鹿もうあっち行けよ天パっつか気安く触んな」
「………」
くぐもった声、一息で言い放たれた言葉に銀八はやれやれと溜め息をついて定位 置に戻った。
そうして何ごともなかったかのようにまたテレビを見始める。
しばらく互いにそのままでいて、緩やかに体の力を抜いた高杉はそれでも銀八に 背を向けたまま屍のように横たわっていた。
それからさらに時が経って、見計らったように銀八が声を掛けてきた。
「もう平気?」
「何が」
「や、なんかしんねぇけど」
「意味わかんねぇ」
「………」
こんな態度可愛くないって自分でもわかっているけれどどうしようもない。
生き物の心臓は一定の回数しか動かないのだそうだ。だから心拍数の低い生き物 は長生きするし、ネズミのように早鐘を打つ生き物は短命だと前に聞いたことが ある。
ことあるごとに過敏に反応し心臓を高鳴らせる自分は、きっと命の砂時計を倍速 で進めているのだろう。長生き出来そうも無い。
黙り込んでしまった銀八を見ようと高杉はごろりと寝返りをうった。
ぼんやりと銀八を見つめる。心臓はまだ落ち着いている。
銀八の風呂上がりでしけっている髪は何時も以上にくしゅくしゅしている。テレ ビの方を向いているその顎のラインを指先でなぞりたい、そんなことを思いなが ら高杉はぽつりと銀八を呼んだ。
「銀八ィ…」
「ん?」
「振り返んな」
「………何?」
振り向きかけた顔はまたテレビに戻される。
高杉は寝そべり銀八を見上げたまま呟いた。
「人殺し」
この男が俺を死に追いやっている。高杉のなかでは筋の通った言葉でも、いきな り言われた銀八は訳が分からない。
「え?なんで?」
「なんでも」
説明責任を放棄して高杉は答える。銀八が少し困ったのがわかった。
「えぇー…、ちなみに誰殺しよ?」
「俺」
「生きてるじゃん」
「もう死ぬ」
「ウソォ」
「マジ」
「マジか。えー…、…それは、困るな」
酷く穏やかに言われた言葉に高杉は一度瞬きをして銀八に尋ねる。
「…なんで?」
高杉の問いにも銀八は振り向くこと無く応じた。
「そりゃ困るだろ。おまえ死んだら」
「人殺しになるから?」
「や、それはねーけど。普通に困るだろ。おまえいなくなったら」
「別に困らねーよ」
「困るよ」
「…なんで?」
もう一度同じ言葉を問い掛ける。銀八はやはり振り返らない。そんな銀八を見つ めながら高杉は思っていた。
おかしい。心臓がやけにゆっくり動いている気がする。
「なんでって」
今にも止まりそうな気がする。さっきまであんなにも激しく動いていたのに。気 分もやけに落ち着いていた。
視線の先、銀八が振り返る。目が合う。銀八はそっと微笑した。
あぁ。
「哀しいだろ」



俺は多分、今死んだ。