屯所への侵入はたやすかった。
今の高杉は10cmになってしまっているうえに銀時以外誰の目にも映らないのだか ら門番の居る正面の門から堂々と中に入った。
幕府の犬、それももとをただせばそこらのゴロツキの寄せ集めになど興味はなか った。わざわざ潰しにかかるのも面倒臭い。
だが今目の前にその根拠地があるとなれば話は別だ。
高杉はどんな風になっているのか見てやろうと中に入り込んだ。
だが全身濡れ鼠になっている高杉だ。彼の姿は目に映らずとも、彼が通り過ぎた ところには小さな水溜まりが出来上がる。10cmになってしまった高杉の足跡、歩 幅など小さなものだ。下手したらそれすら誰にも気付かれないかもしれい。しか しそれは確かに屯所の廊下に点々と続いていた。



銀時は悩んでいた。真選組の屯所まで曲がり角ひとつというところで立ち止まり 眉間にシワを寄せている。
先ほど道路に置き去りにした高杉の気配が今はその屯所のなかから感じられる。
確かにさよならをするつもりではいたが、連れ帰ってちゃんと餞をやり、きちん とさようならをしようと思った矢先にこれだ。
高杉を連れ帰るためには屯所のなかに入るか、彼が自分から出て来るのを待つ他 ない。
入るにしても、自分は真選組にいい印象を持たれているとは思えない。素直に中 に入れてくれるだろうか。いや、まず入れてくれないだろう。
待つにしても、今日は雨だ。それも冷たい。だから気温だってそう高くはない。 そんな中いつ出て来るとも知れない存在なんて待ちたくもない。
どうする。銀時は考える。そんな銀時を一人の男が目撃していた。



ぞくりと背筋に悪寒が走る。身体を冷やしすぎてしまったらしいことに高杉は舌 打ちをする。
冷たい自分の身体を掻き抱き、不意に聞こえてきた会話に顔を上げた。
「テメェは今日は見回りじゃなかったか?あ?」
「何行ってんですかィ。今日は大雨洪水注意報が出てるんですぜィ。家でおとな しくしてろってお達しと同意でさァ」
「ほーぉ、それでテメェはここでワイドショー見ながら煎餅食ってんのか」
「他にすることなんざないでしょう」
「働けェェエ!!!」
曲がり角を曲がった高杉の目に入ったのは障子にもたれている男一人だけでもう 一人は室内にいるため見えない。
見える位置にいる黒ずくめの男を高杉は知っていた。
(確か、真選組副長土方十四郎…)
「俺ァ今から書類片付けてくる。次に俺が通った時に居やがったらタダじゃおか ねぇからな」
「大丈夫でさァ。その頃には俺ァ飯でも食いに行きますから」
「だから働けェェエ!」
怒りながらも去って行く土方を高杉は見つめる。
せっかく此処にいるのだから、何かしてやろうと高杉のなかの悪戯心に火がつい た。さて何をしてやろうかと考えながらとりあえず高杉は土方が立っていた部屋 に近付いた。
中を覗き込めば其処には沖田の姿が。土方が怒っていた通り、だらだらと煎餅を 食べながらワイドショーを見ている。
高杉は沖田の隣り、無造作に置かれている刀を眺めた。
(ガキのくせにイイモン使ってんじゃねーか)
そして辺りを眺めていると不意に沖田が体勢を変えた。高杉の上にその手が重な りそうになるのを高杉は間一髪よけた。
「ん?冷て…」
手を突いたところがじんわりとしけっていて、沖田はなんとなく自分の手を見た 。濡れた、とまではいかないが微妙に湿り気を帯びている。
次いで畳を見た。パッと見では特に変わった様子はなく、沖田は首を傾げながら マジマジと畳を見つめる。無造作に指先でなぞる。所々湿っていた。
高杉の身体に付着していた水滴はだいぶ落ちきっていたため、通り過ぎたくらい では水溜まりなど出来なくなっていたが、刀を見るために立ち止まりながら移動 したので着物が含んでいる水が畳を湿らせたらしい。
「…?」
沖田に高杉の姿は見えない。だが野生の勘のようなものが働いたのか、畳が湿っ ていることを訝しく思っている沖田は他に濡れているところはないか探し始めた 。
その手を避けるように高杉は結局何も出来ないまま部屋を後にした。



「ないと思いますよ、旦那ァ…。あれから何ヵ月経ってると思ってるんですか」
「わーってんだよ、でも他にねーんだから仕方ねーだろーが」
銀時は帰ってきた山崎に連れられて屯所に入っていた。
何をしているのかと尋ねられたとき、咄嗟に出て来た言葉が前に中に入ったとき に落とし物をしたというものだった。
「何落としたんですか?あれから掃除だってしてますが、そんな誰のかわからな いものなんて落ちてませんでしたよ」
「だーから分かりづれぇものなんだって。隅に転がってっかもしんねーだろ。そ れともあれか?俺の話聞いて、俺が帰ったあと探し回る気だろ。んでガメる気だ ろ」
「しませんよそんなこと。それに見つけたらちゃんと旦那に返します」
そんなやりとりを交わしている最中、二人の前に犬のように廊下を這って進んで いる沖田が現れた。
「沖田さん、何してんですか」
「おぅ山崎ィ、なんか廊下が濡れてるんでィ」
「濡れて…?あ、本当だ」
言われて初めて気付いた山崎もその場にしゃがみ込み二人で頭を合わせて話し始 めた。
そんななか銀時一人、沖田がやってきた方向を見つめた。感じる。この先に、高 杉は居る。
「雨漏り、じゃなさそうですよね…。あ、旦那、何処行くんですか旦那!」
山崎の声に構わず銀時は感覚に従い廊下を進んでいった。



次に覗き込んだ部屋に居たのは土方だった。先ほど沖田に言っていた通り、上着 を脱ぎベスト姿で書類と向き合っている。
何か面白いものはないかうろうろして、やはり気になるのは今の高杉ではとても 見えない机の上だ。
鼠返しになってしまっている机はよじ登れそうにない。高杉は机の側にいる土方 を見上げた。当然だが、高杉に気付いている素振りはない。タバコを咥えたまま 黙々と書類に目を通している。
そんな土方に高杉はよじ登り始めた。
「………ん?」
背中に何か感じて土方は振り返った。何もない、ように土方には見える。
「?」
眉間にシワを寄せながらも土方はまた書類に目を向けた。その間も高杉は頑張っ て上っている。やっと肩まで来た高杉が、土方は気になるらしい。もぞもぞと辺 りを見回した。
不安定な場所、高杉は土方の肩に掴まりながら机の上を見た。
「ちょっ、旦那ァ」
山崎の声に土方が障子を見やるのと、その障子が勢いよく開き銀時が姿を現した のはほぼ同時だった。
高杉と土方が突如現れた銀時に目を見開き、銀時は土方の肩にいる高杉に驚く。
「高…」
「万事屋…!テメェこんなところで何してやがる!」
「ぅわっ」
銀時の登場に驚いていた高杉が不意に立ち上がった土方の肩から転がり落ちる。 銀時は無意識にそれを目で追った。
畳に落ちた高杉に摺り足をした土方の足が当たり、蹴飛ばされる形で高杉が転が る。
肩から落ちたのと転がったショックでクラクラしているらしい高杉に土方は当然 気付いていない。無造作に銀時に詰め寄ろうと足をあげた。
「わーーーー!!」
「!?」
高杉が踏まれそうになり銀時は思わず大声を上げ、足下に飛び掛かった。銀時の 奇行に怯んだ土方が一瞬動きを止めた。
その隙に銀時は高杉を拾い上げ乱暴に懐に入れる。じんわりと冷たさが染みてき たが今はそんなこと気にしてはいられない。
「テメッ、なんのつもりだァァア!!」
「いやーワリーワリー、コンタクト落としちまって」
「テメェは裸眼だろうが!」
銀時は何ごともなかったかのように立ち上がった。その懐では高杉が今だ目を回 している。
「なーんかなさそうだし、うるせーのには見つかっちまったし、俺帰るわ。んじ ゃ」
そう言って銀時は今来た廊下を戻っていく。
「あっ、オイコラ!誰だあの野郎を入れやがったのは!!」
「ふ、副長ォ!書類が…!」
「あァ?」
山崎の言葉に机に目をやった土方は、立ち上がった際足をぶつけたために零れた お茶が書類をびしょびしょにしてしまった惨状を認識した。
「山崎ィィイ!!」
「えぇぇぇえ!!なんで俺ェェエ!!!」



間接的な高杉の悪戯による真選組屯所の被害、書類数十枚。
そして、濡れた廊下の謎と土方が感じた謎の気配による得体の知れないものへの 僅かな恐怖心という精神的なものにとどまった。



かくして高杉は銀時の元に戻ったのであった。