さらさらと水の流れる音がする。白い光が照らす木の葉は萌えたばかりの美しい色をして輝いている。その葉が作り出す清らかな空気で満たされたこの部屋で、鳥の鳴き声が響く。羽を打つ音がして、黄色いその鳥は空を切るように滑空した。
ふわりと鳥が舞い降りた先は艶やかな黒い髪の上だった。頭上から注ぐ光に照らされた肌は透き通るように白い。
鳥に乗られた青年の瞳は瞼のしたに隠れ、その長い睫毛は震えることもない。
「お、久しぶりだなぁ。此処に居たのか。どこに行っちまったのかと思ってたぜ」
代わりに眠る青年の横に座り込んで居た山本がその鳥に笑いかけた。
鳥は歌う。彼の人が愛した母校の歌だ。されど青年は目覚めない。静かに呼吸を繰り返すばかりで、漆黒の瞳は現れない。山本の表情が歪んだ。
歌は続いている。山本は眠る男を見つめながら、祈るようにその手を取って握りしめた。
「ほら、並中の校歌、一緒に歌おうぜ、なぁ、起きてくれよ、なぁ」
震える声がその名を紡ぐ。
「ヒバリ」
彼は目覚めない。その瞼は閉ざされたまま、ただ呼吸だけを繰り返している。
ヒバリが怪我を負った。それも、致命傷とも言えるほどの大怪我だった。
そのときチームを組んでいたのは山本だった。山本は、ヒバリの薄い身体から流れ出る温かい赤い色と裏腹に熱を無くしていく肌、その相反する温度に震え慄きながらただその身体を抱きしめることしかできなかった。
「苦しい、んだけど」
あまりにも強く抱きすぎたのか、腕のなかでヒバリが呟く。その声に我に返った山本は過剰に込めていた力を抜いてゆるゆるとヒバリを見下ろした。血が足りずに顔は青ざめている。黒いジャケットの下にある白いシャツは真紅に染まっていた。その絶望的な色に、山本はなにか言おうと口を開いたが、唇が震えるばかりでなにも言えなかった。
か細い息を繋ぎながら、そんな山本を見上げてヒバリが笑う。
「君、なんて顔してんの」
「ヒバ…。あ、しゃ、喋んな。オッサン、シャマルのオッサン呼ぶから」
「慌てすぎ。ねぇ、君の匣兵器の雨、降らせて」
鎮静の効果を持つ雨。生命活動を低下させるその雨の効力でまっとうな活動をしようとすれば色々なものが流れ出て維持できなくなりつつある身体をとりあえずは永らえさせることができるかもしれない。
山本は即座に一羽の鳥を空に羽ばたかせた。即座にパラパラと雨が降り始めた。霧のようなそれが二人を濡らしていく。
今にも閉じそうな黒い瞳は瞬きを繰り返すたびに閉じる時間が長くなっていく。ヒバリ、ヒバリと覚えたての言葉を繰り返すだけの子供のような山本に、ヒバリは上がらない腕を持ち上げようとした。それに気づき、山本が投げ出されていたその手を拾い上げる。
頬に寄せた手は、冷たかった。
「君にそんな顔されると調子が狂うよ、笑ったら? いつもみたく、バカみたいにさ」
「ヒバリ…」
笑えと言ったヒバリがうっすらと笑っている。けれど山本は笑えなかった。ヒバリの表情から笑みが消えていく。焦点のぶれた瞳がいよいよ見えなくなっていた。
「ちょっと、寝る。君が笑えるようになったら、起こし、て…」
握りしめていた腕から力が抜ける。意識のなくなった身体は重たくて、鉛のようだった。
「ヒバリ…」
死ぬな。死なないでくれ。どうか、どうか。山本は祈った。けれど、口には出せない。死という単語を音にすることが恐ろしくて仕方がなかった。
いやだ、いやだ、いなくならないでくれ。おいて行かないで、いかないで。
山本は眠るヒバリを抱いて雨の中を走り続けた。
それからどうしたのか山本は覚えていない。気がついたら雨はやんでいて、ヒバリは血濡れのシャツから着替えさせられていて、自分の服も変わっていた。
ヒバリは目覚めない。シャマルが言うには、生命活動を鈍化させた時間が少々長すぎたらしい。晴れの活性で傷は癒えても、活動を促しても、ヒバリは目覚めない。
「ヒバリ」
山本の声が響く。そっと手を伸ばして山本はヒバリの白い頬に触れた。なんの反応もない。指先に少し力を込めれば生きた肌は若々しい弾力をもって山本の指先を押し返した。
水の流れる音がする。鈍化の雨を一箇所に降らせ、流し、ヒバリの身体を包み込んでいる。目覚めないヒバリの生命活動を維持させるために身体中に管をつけるのは躊躇われた。そんなエゴのために、ヒバリの身体は鎮静の雨の水のなかに静かに横たわっている。頭上から降り注ぐ白い光は活性の晴れの光であり、相反する二つの効果に晒されたまま、ヒバリはこんこんと眠る。
新緑の葉をもつ木々が茂るこの場所は屋内だ。ヒバリのために誂えた、小さな楽園。
「なぁヒバリ、起きてくれよ。なぁ」
君が笑えるようになったら、起こして。
そんなことを言われたって、ヒバリが目覚めてくれなければ笑うことなどできやしない。作ろうとする笑みはいびつに歪むばかりだ。だから、ヒバリが先に起きて、笑えと、そう言ってくれさえすれば、きっと、笑える。
「…ヒバリ…」
そばにいたのに守れなかった後悔が、自分が施した処置の拙さが引き起こした事態が、山本の胸を押しつぶす。
ヒバリの手を握りしめて、山本は頭を抱える。
痛いと言って目覚めてくれ。この馬鹿力と苛立ちを隠さない素直な瞳を向けてくれ。お願いだ。頼むから。この願いが叶うのなら、もうそれ以上は望まないから。
募る懺恨が音に乗ってとりとめもなく宙を舞う。閉ざされた楽園に、目覚めのときはまだ訪れない。