山本武が光を失った。



鳥が鳴いている。チチチと小鳥が鳴く庭先からは風が吹いてきて、布団に座っている山本の黒髪を揺らした。モノの形を把握することは叶わなくとも、明暗位ならば捉えられる目は幾重にも包帯が巻かれていて、広がるのは闇ばかりだ。けれど、その暖かな空気の流れと忙しない鳥の声が、今は太陽が登る時間だと教えてくれた。
廊下を歩く静かな足音が山本の耳に届く。部屋の前で停まったそれに、山本は声をかけた。
「どうした? ヒバリ。今日は仕事ないのか?」
「……」
名指しされ、開け放たれた襖の横に立っていたヒバリはしばし答えもせずに山本を見つめた。山本は確信しているのか、なんの反応もないことに不安がるでもなくヒバリがいるであろう方向に顔を向け、返答を待っている。瞬きを一つして首をかしげるとヒバリが口を開いた。
「足音だけでよく分かるね」
「他の人はまだよくわかんねーけど、ヒバリのだけはなんとなくわかるのな」
そう言われて、そんな特徴的な足音をしているだろうかとヒバリは自身の足を見て、それから歩いてきた廊下を振り返り見てみるが、よく分からない。
まぁいいかと割りきって、ヒバリは部屋の中央で座る山本の横に膝をついた。
「今日はいい天気なのな。鳥がよく鳴いてるし、暖かい。でも、少し湿気てる気がするから、明日はきっと雨なのな」
確かに、明日は雨だと天気予報が言っていた。暖かい空気に生ぬるさを感じつつも、特別湿気を感じていなかったヒバリは山本の言葉に呆れたような嘆息を漏らした。
「君、目が見えないほうが鋭いんじゃないの」
昔から明日の天気には気を配っていた方だったけれど、体感による天気予報の精度は自分とそう大差なかったはずだ。
山本の目を覆う包帯を、ヒバリは指先でそっとなぞる。ヒバリの言葉を受けて、山本は笑った。
「ハハ、かもな」
光を失って、前ならば着にも留めていなかった感覚にも反応するようになった。山本もそれは自覚している。だから、目が見えなくなっても良かったのだとは言わないけれど、失ってしまったものはもう戻らない。他より補うしかないのだから、これはこれでいいのだと山本は考えている。
包帯から頬へと移っているヒバリの指先に山本は触れる。その手を辿って手首へとずらせばスーツの袖へ辿り着いた。
「あれ、今日も仕事か。今何時だ? 昼過ぎくらいか?」
ヒバリがスーツを着るのは仕事の時で、自宅で過ごすのならば和服を着ている。今、山本が着ているように。だから和服ではないということは、オフではないということだ。
山本の問いに、ヒバリが唇の端を吊り上げて笑う。
「それは腹時計? 恐ろしいほど正確だね」
山本が触れている手首の腕時計に目を向ければアナログのそれは12時15分より少し手前を示していた。
「食事にしようか。持ってきてあげるよ」
言いながらヒバリが立ち上がる。なんとなくの感覚で、山本は顔を上げてその姿を追った。
「別に体が悪いわけじゃないんだから、歩けるぜ?」
「ダメ、変なところにぶつかられても面倒だからね」
大人しく待ってて。そう言われて山本は手持ち無沙汰に窓の外へと目を向けた。いつの間にか、鳥の鳴き声は聞こえなくなっている。代わりに木の葉の擦れる音が広がった。
唯一識別できる足音が帰ってくる。カタンとお盆が置かれる音がしたが、その上になにが乗っているのか、山本には分からない。
頬に触れられて、口を開くように言われる。スプーンや箸で一口ずつ料理を運ばれることには、まだ慣れず少し気恥ずかしくて山本は困ったように笑った。
それでも言われるが口を開く。親鳥から餌をもらう雛はこんな気持なのだろうかとぼんやり考えたが、きっと雛たちに羞恥などないし、もっと生きるために必死に餌を強請っているのだろう。今自分が置かれている立場とはぜんぜん違う。
自分で食事を探すことができない、運んでもらうのを待つしかないのは同じだが、決定的に違うものがあるのを山本は自覚しながらも、気づかない振りをし続けている。
きゅう、と何かが鳴いた。鳥ではない。きっとヒバリの函、ロールだろう。意味もなく外に出ていることもあるそれが、今、二人のそばにいるらしい。
君にもあとで上げるよ。ヒバリの声がする。それに嬉しそうな鳴き声が返ってきて、その微笑ましさに山本は微笑し、己の函の相棒達に思いを馳せた。
「次郎たちも出してやりてえなー。今日なんて、絶好の散歩日和なのな」
思ったら体が疼いた。ヒバリの屋敷に来てから、満足に部屋の外にも出ていない。もともとインドアの質ではないのだ。太陽の光を浴びて、思い切り運動したい。
しかし、そんな山本の思いとは裏腹に、淡々とヒバリは問いかけてきた。
「その体で何処に行くの」
「次郎達なら盲導犬代わりにでもなれそうなのな」
だから、きっと大丈夫。そう山本が言葉を紡ぐ前に、ぐっと近くなった距離からヒバリの声が聞こえた。
「ダメ」
山本の唇に何かが触れる。見えない。けれどわかる。ヒバリの唇だ。
「絶対にダメ」
再び唇が押し付けられる。触れるだけのくちづけを何度も繰り返されて、それはいつしか深いものに変わっていた。
光を失った山本を、ヒバリが半ば強引に実家や沢田達から引き離して自分の屋敷に連れてきたことを山本は知っている。それ以来、山本はずっと与えられた部屋のなかにいた。せいぜい、屋敷のなかを壁伝いに少し歩く位で、その行動範囲は広くない。
襖にも扉にも鍵などかけられていない。足はある。いくら目が見ないといえど、その気になれば、幾らでも抜け出せる緩い檻だ。それでも山本はそこから出ようとはしなかった。
ヒバリが山本を此処に閉じ込めて置きたがっていることを、山本はわかっている。だからこそ、自分が此処にいてはいけないことも。
けれど、執着を見せるヒバリが可愛くて仕方がないのだ。だから、山本は此処に居る。
手探りでヒバリの顔に触れる。親指で何度も口づけてくる唇を探して、感覚で山本からもくちづけた。少し目標からずれたそれを、ヒバリが顔をずらしてしっかりと重ねた。
出られない、開かれたこの鳥籠から。ヒバリがこの鳥籠を大事に大事に抱きしめている限り、山本はきっとこの場所にとどまり続けてしまう。



(何処にも行けないのはお互い様)