ガラスの割れる音がする。なにかが倒れる音もした。最初こそどうしたのかと慌てて駆けつけたものだったが、今じゃ慣れたもので山本は動じることなくまたかと思うだけだった。
洗濯機から洗濯物を取り出して干す。そんなことをしている間も破壊音は止まらなかったが、昼食の準備が終わる頃には何事もなかったかのように静まりかえっていた。
あとは盛り付けるだけにして、山本は漸く音源の部屋に向かう。何の変哲もないドアを、静かに、極力音を立てないようにして開けて、中をそっと覗き込む。部屋の真ん中にキャンパスが見えた。綺麗な綺麗な海の底。濃淡のついたそれは下が水面で上にいくほど深く濃い闇になっている。
何の反応もない室内に、山本は半身だけ乗り出して辺りを見回した。地獄絵図だ。機能を有し役に立つための形であったものは跡形もなく破壊尽くされ、残骸が散らばっている。窓から差し込む光にガラスが反射して綺麗だけれど、危ないと思う。けれど、真ん中にある美しいキャンパスを中心として円形にぽっかりと床に塵一つない空間が出来上がっていて、絵を浮き上がらせている。異様な光景だった。
山本は完全に部屋に踏み入って、地獄のなかからベッドと、その上に俯せに寝ころんでいる黒髪を見つけて近寄った。ぱきりとスリッパの下で何かが割れる音がしたけれど気にも留めずに屍のように動かない存在の傍らにしゃがみ込む。
「ヒバリ、ヒバリ。もう昼飯だから、リビング行って飯食おう。今日はハンバーグなのな」
「…いらないよ」
もぞりと動いて顔の一部を覗かせたヒバリの目には気だるさが漂っている。だがそれよりも山本が気になったのはその顔についた一筋の赤い傷跡だ。跳ねた破片で切ったのだろうか。しかしそんな傷など気にもせず眠たそうに欠伸を一つするのに苦笑して、山本は黒髪を撫でた。
「んなこと言うなよ。夜も朝も食ってねーじゃん。俺、すごい頑張って作ったし」
「…あとでいいよ…」
寝る体勢に入ったヒバリを起こす気にはならず、山本は仕方なく改めて辺りを見回した。
画材もぶちまけたのだろう。あたりに色が散っている。そのなかに、絵の残骸らしきものを見つけて山本はそれを拾い上げた。赤黒い絵の具を何度も何度も塗り重ねた油絵の欠片も拾い集めて、山本はパズルのようにそれを復元し始めた。もしかしたら何か浮き上がるかもしれない。そう思ったが、完成してもそれはただドロドロとした言いようのないおどろおどろしさばかりを強烈に放つ形なき訴えのようだった。
「芸術って難しいなぁ…」
「なにが芸術なの」
「うぉ、びっくりした。起きてたのか」
突然背後から掛けられた声に山本は振り返った。先程と同じように、ベッドで寝転がりながらヒバリは目だけを山本に向けていた。
「あそこにある絵も、ヒバリが破り捨てちまったこれも、世に出しゃみんな芸術だろ?」
画家としてのヒバリの名声は留まることを知らない。だから彼の持つ独特な世界観も振る舞いも、天才肌の芸術家にはありがちなものだと世の中には認識されていた。
群れるなんて有り得ない、草食動物でもない限り独りで生きていくのが当然だと主張してはばからない天才だけれどその割に自己管理に無頓着で、生存のため必要最低限の世話役として遣わされたのが山本だった。下手に芸術を解さない方がいいというのが人選理由だとヒバリの活動のマネジメントをしている草壁に告げられたことがある。
山本の言葉に、ヒバリは蔑みを込めた笑みを浮かべた。
「ワォ、芸術? 僕の描いたものが? まさか。そんなものが芸術なら、芸術ってのは排泄物と同じだね。そんなものにたかる奴らは草食動物ですらない。ハエかなにかかな。駆除したいね」
「ヒバリ。言葉が過ぎる」
たしなめる山本の言葉にもヒバリは曖昧に笑ったまま、言葉を続けた。
「排泄物がダメなら吐瀉物だ。うちにあるものを吐き出して楽になりたいだけさ。高尚ぶる奴はさぞや崇高な思いを込めて描いたり作ったりしてるんだろうね。僕とは大違いだ」
「ヒバリ」
「くだらないな。つまらないよ、みんな」
興味をなくしたようにごろりと仰向けになったヒバリはアタマの下で手を組んで、足を読んで目を閉じた。開け放たれている窓から飛んできた小鳥がその頭に乗っても気にしない。
山本はそんなヒバリを見て、今継ぎ接ぎしたものを見て、対照的なキャンパスの絵を見て、またヒバリを見て、とその三点を何度も見直した。
「それでも俺は、絵のこととか全然わかんねーけど俺には到底描けないものを長いときは何日も何日も根詰めて描き上げたりするヒバリのことすげーと思うし、それだけかけたものをためらいなく破り捨てるのを勿体ないって思うけどその潔さがやっぱりすげーなって思うし、ヒバリがそんな風にして吐き出したものもやっぱすげーと思うんだよ」
最終的に深い藍色に視線を落ち着けた山本はそれを見ながらぽつりと告げた。
「だからいつか、絵を描くのが胸のなかのわだかまりを吐き出したためじゃなく、誰かのために作り上げるためになれば、それは良いことなんじゃないかって、俺は思うのな」
「…そんなの僕の絵じゃない」
「ヒバリの絵さ」
言い切ってヒバリを見れば、ヒバリは納得がいかないような顔をして、寝返りを打ってまた俯せになった。そんなヒバリの横にしゃがみ込んで、山本は丸い頭を撫でた。
「誰かのためになにか作るって悪くないことだぜ。少なくとも俺は、ヒバリのために料理すんの凄く楽しいし、やりがいがある」
ヒバリが食べてくれたらもっと嬉しい。
そう告げて山本は部屋を後にしようとした。
「ねぇ」
呼び止められ、足をとめて振り返る。俯せに寝ころんだまま、ヒバリが言った。
「お腹すいたよ」
たった一言、それに山本は目を瞬かせ、それから嬉しそうに笑った。
「今日の昼飯は、ハンバーグなのな」