「今度こそ死んだかと思ったよ」
「開口一番そりゃないのなー」
一ヶ月前、登頂中に音信不通になった男が家のドアを叩いたので、ヒバリはその戸を開けて胸の内に抱えていた思いを吐露した。
ヒバリの言葉に、世間を賑わせた男は眉を下げてみせる。別に困ってもいないくせにそんな顔をするのはどうかとヒバリはずっと思っているが、別にどうでもいいことなので口に出して言ったことはない。
どこに寄ることもなく真っ直ぐヒバリの家を訪れたのであろう彼、山本を家に招き入れて浴室へ押し込む。電話だけは貰っていたのでお茶と食べ物は用意しておいた。正確には草壁が用意したのだが、この家にあるということが大事なのでヒバリは気にしない。
草壁に言われたように菓子の乗った皿を机に出して、自分の分のお茶を入れようとやかんに火をかけた。入れすぎた水はなかなか沸かず、カラスの行水を済ませた山本が出てくる方が早かった。
「ちゃんと洗ったの?」
「洗った洗った。お、お湯沸くのな。お茶? これに入れればいい?」
慣れた手付きでお茶を入れる山本に、ヒバリはやろうとしていた作業を取られて手持ち無沙汰に座ってお菓子に手を伸ばした。
二人分のお茶を持ってきた山本も漸く腰を下ろして一息吐いた。
「はー、やっぱヒバリのとこは落ち着くのな」
「家の方がいいんじゃないの」
「意地悪言うなよ」
一口お茶を含んで、湯飲みを戻した山本は膝立ちで移動して、ヒバリの隣にやってきた。少し上体を傾けて、ヒバリの頭に頬を寄せる。
「ヒバリの隣が一番落ちつくのな」
「一番気を張らなきゃいけないところだと思うけどね」
物騒な言葉を吐きながら、ヒバリは動かなかった。
しばらくお互いに口を閉ざした。脱力しているようで気は張っている。互いの気配を、胸中をさぐり合う。先に口を開いたのは山本の方だった。
「しかし今回は死ぬかと思ったのなー」
地球上において、探検家が進む場所は今やもう限られている。上空からの衛星写真すら撮れないような、そんな最深部ばかりで当然難易度も桁違いの場所ばかりだ。
いつしか探検家としての名声を得た山本はあちらこちらの山や海へ出掛けていく。せめてその近くまでヒバリに来てくれないかと言ってみたこともあるけれど、ヒバリの返事は予想通り、ノーだった。
しかし、並盛でなら、君の帰りを待っていてもいいよ。ヒバリがそう言ってくれたので、山本の帰るべき場所は、帰ってきたことを報告する場所はいつだって並盛だ。
「僕は死んだかと思ったよ」
淡々とヒバリは言う。嘘ではなかった。山本との通信が途絶えたというニュースを見て、1ヶ月が経過したときに今回は本気で死んだと思った。思って、気が付いた。
「君が死んでも、僕にやることはないんだね」
葬式の準備は親族がやるだろう。仏壇も墓も全部ヒバリが用意すべきものではない。死亡届だって出すことはない。そうしたらヒバリにはやるべきことなど無くなってしまって、やったことと言えばあまりの仕事のなさにぼんやりと預かっている犬を撫でた位だ。あと預かっている鳥の水を換えた。
「俺も、あー死ぬかもなーって思って、ヒバリに何を遺せるだろうって考えたけど、案外思いつかないのな」
私物なんて大した価値もない。ある程度のものは今まで育ててくれた親の老後の足しにしてもらいたい。
犬の次郎と鳥の小次郎は、と考えたけれど、単に押しつけているだけのような気がしなくもない。悩んで、とりあえず生きて帰ろうと心に決めた。
そうしてちゃんと帰ってきた訳だが、今のまままた何処かへ出掛けたら、また同じ目に合ったら、同じことを思うのだろう。
「別に、君に残してもらいたいものなんてないよ」
束縛はゴメンだ。嘘偽りない言葉に山本が苦笑する。
「そうなんだよなぁ。俺も、縛りつけておきたくなんかねぇし」
だから何も残さない。
「俺がどっかで死んだら、ヒバリは俺を忘れていいのな」
次郎も小次郎も実家に返して、自分の全てを捨ててしまって。
山本の言葉に、ヒバリは少し頭を傾けて、上体を山本に預けた。ズレたバランスに山本は身をよじって適当な場所に落ち着く。しばらくそのまま互いに口を閉ざした。
どことなく静まり返った室内に、鳥の鳴き声が響く。それがまた静寂を際立たせる。
そのさえずりよりも少し大きな声が静けさを破った。
「僕は此処にいるよ」
並盛から離れる予定はない。たとえ山本がどこに行っても、どこでその息を止めても、何処にも行かない。
「だから、此処に来る限り、君が死んでもドアは開けてあげる」
待ってる、とは言わない口を山本は唇で塞いだ。唇が離れたら相手の目に映る自分を見つめ返して、今度はヒバリが少しだけ伸び上がって山本の唇を塞ぐ。少し逞しい首に腕を絡めて更に強く引き寄せた。



(もうこれ以上、なにも言わないで。言わせないで)

(余計なことまで零れ落ちてしまいそうだから)