しばらく実家に戻っていた山本は、2週間ぶりにヒバリと暮らすアパートに帰ってきた。離れている間も変わったことはないか、明日は燃えないゴミの日だから出しておいて欲しい、ちゃんと燃えるゴミを朝出してくれたか、そんなやりとりを電話で交わしていたけれど、ずっとヒバリが気になって仕方がなかった。
久しぶりのアパートを前に山本の頬は緩み、玄関のドアを嬉々として開けて声をかけた。
「ただいまなのなー」
「おかえり」
声だけ返ってきて、ヒバリの姿が見えない。広くないアパートの何処にヒバリはいるのだろう。首を傾げながら山本が室内へと足を進めれば、ヒバリは玄関から見えない奥の方、タンスの前で鞄に荷物を積めていた。
「ヒバリ、どっか行くのか?」
完全に旅支度の様相を呈している。あとはチャックを閉めるだけのボストンバックから覗いている黒いパジャマを見て、山本はまた首を傾げた。どこかに行くだなんて、そんな話は聞いていない。
不思議そうにしている山本を見上げ、ヒバリはちょっとそこまで、とでも言うかのようにあっさりと言った。
「ちょっと入院してくる」
「へぇ、いってらっしゃ…ん? 入院?」
あまりにも気安い口調だったために、山本はヒバリの言葉を一瞬聞き流しかけて、その違和感に眉を寄せてヒバリに目を向けた。
ヒバリは鞄を手に立ち上がり、玄関へと向かっていく。その後ろ姿を、山本は慌てて追った。
「ちょっ、ちょっと待てって。な、ヒバリちょっと待ってくれよ」
「なに」
腕を掴んで引き留めれば、ヒバリはあっさりと足を止めたが、その目は訝しげに山本を見ていた。
山本はヒバリの額に掌を当ててその熱を計った。自分とそう変わらない気がするが、どうだろう、よく分からない。自分を見つめるその顔色は別に悪くない。
あぁ、もしかしたら何処か怪我でもしたのだろうか。そう思い至って山本はヒバリに問いかけた。
「ヒバリ、どっか怪我したのか?」
「? 別にしてないけど」
なにを言っているのかと視線で訴えられて、山本は再び首を傾げた。それにつられるように、ヒバリも首を傾ける。鏡合わせのようにしながら山本はしばらくヒバリの手を捕まえていたが、離してと言われて素直にその手を離した。
「じゃ」
「いやちょっと待ってって。なんで入院?」
「風邪引いた、かも」
「かも?」
山本がその語尾を捕まえて繰り返せばヒバリは首を縦に振った。ヒバリの反応に、山本は今一度ヒバリの額に手を当てて、自分の熱と比べてみたがやはりそう差異は感じられない。
立ち話はなんだからと、山本はヒバリをリビングへと導いていつの間にか出来上がったお互いの定位置へと座らせた。仕舞ってあった体温計を取り出して、ちゃんと熱を計らせてみても、平熱しかないと教えてくれるだけだった。
「?」
ヒバリを見ても、やはり顔色はいつも通りだし、咳込んでいる様子もない。ヒバリの言葉を疑うわけではないけれど、どう見ても入院する必要など、いや、病院に行く必要すらないようだった。
「もしかして、俺のいない間に検査でもして、なんか病気が見つかったのか?」
毎日のように電話を掛けたけれど、そんな話は聞いていない。山本は真剣に訪ねたのだけれど、ヒバリは少し眉を寄せた。どうしてそんなことを言うのだろうと真意の読めない問いに気分を害しているようだった。
「そんなことないけど」
「じゃあなんで入院なんて」
「風邪引いたかもって言った」
「元気そうじゃん」
「元気だよ」
何処か会話がかみ合わない。風邪を引いたかもと言ったり、元気だと言い切ったり、結局どっちなのだろうと山本が思っていると、でも、とヒバリの言葉が続いた。
「でも?」
「寒い」
悪寒でもするのだろうか。これから熱が上がる予兆だろうか。
ヒバリの言葉に山本は思わず三度目の手で熱を計る仕草をしてみたが、額に手を当てられているヒバリの格好は薄着で、とても寒がっている人間のする格好ではない。
「上着着るか?」
「今じゃないよ、夜」
「夜?」
布団を見ればまだ冬物の布団のままで、山本が家を空ける前となんら代わりはない。暑いことはあれど、寒いことなんてないはずだが、あれで寒いのなら本当に風邪を引いているのかもしれない。どうしようかと山本は考え込んだが、あんまりにも目の前のヒバリが平然としているので、今日は様子を見ることにした。
山本は注意深くヒバリを観察していたが、やはりヒバリは咳の一つもなく、寒さを訴えることもなかった。夜、2週間ぶりに同じ布団を被る。
「…狭い…」
それまではこれが普通だったのに、2週間ずっと一人でベッドを使っていたヒバリは寝転がってそう不平を訴えた。それに苦笑しつつ、山本はヒバリを抱き寄せて腕の中に閉じ込めた。
「今日は寒くないか?」
「…寒くないよ」
暫く黙りこんだヒバリはぽつりと呟く。近い距離にある山本の顔を見上げながら、なんでもないことのように言った。
「君のいないベッドは広くて快適だけど、寒かったよ」
おやすみ。そう言ってヒバリは目を閉じた。もう何も聞く気も話す気もないと閉ざされた瞼は全てを拒絶して、それでもほんの少し身をよじり、山本の腕の中で落ちつける体勢を探すとそのまま寝息を立て始める。
ぽつんと取り残される形となった山本はしばらくヒバリの言葉に目を瞬かせ、それから紡がれたその言葉の意味を理解して一人頬を緩めた。
(なぁ知ってるか? あんたが感じてたそれって寒かったんじゃなくて、寂しかったって言うんだよ)