桜が咲いた。まだ一輪、二輪だけだけれど、その日並盛中学校の今年の桜が初めて花開いたのだった。
もう春休みに入った学校にいつもの活気はない。けれど部活の練習のために学校に来て、それに気が付いた山本が唯一解放されている教職員用の玄関から校内に入り、嬉々として屋上への扉を開けるであろうことを、ヒバリは心のどこかで予想していた。。
近づいてくる足音が、その予想が的中していることを教えてくれる。ヒバリの背後で重い扉が開く音がした。
「なぁヒバリ、桜見たか? 今日咲いてたのな。正門入って直ぐの桜」
「…見たよ」
ゆっくりと振り返り、その声の主を目で見て確かめる。野球のユニフォーム姿をした、思った通りの人が居た。屈託のない笑みを浮かべて、少し乱れた呼吸を整えながらその人は、山本はフェンスのそばに立っているヒバリの横までやってきた。
「もう2、3日もすればきっと満開になるのな。そうしたら花見にでも行こうぜ。もうあのヘンな病気も治ったんだろ?」
山本に悪意など欠片もなかったが、その言葉にヒバリは眉を寄せ少し唇を尖らせた。
去年の花見で患わされた得体の知れない病のことは、忌々しい以外の言葉が見当たらない。あれさえなければと思うこともある。あの不真面目極まりない保健医はいつか咬み殺してやらなければならないと考えているヒバリの胸中など察することもなく、山本は眼下に広がる桜を見下ろした。
まだ開花し始めたばかりの桜の花はよく見えない。けれど、一杯に膨らんだ蕾の淡い桃色で桜の木はうっすらと柔らかく色づいて見えた。
「いっつも思うけど、桜の咲くタイミングって勿体ないのなー。卒業式にはまだ咲かないし、入学式ではもう殆ど散ってる、し、って」
言葉の途中、不自然に途切れさせた山本に違和感を覚え、ヒバリは山本に目を向けた。山本もヒバリを見ていた。ぱちぱちと瞬きをして、まるで幽霊でも見るような目をしていることにヒバリは首を傾げた。勝手にやってきて今の今までごく普通に喋りかけてきていたくせに、この態度は何事か。
理解できる気がしなかったので、ヒバリは素直に問いかけた。
「どうしたの」
「いや…」
まだなんとも言えないような顔をしたまま、山本もヒバリに合わせるように首を傾げた。鏡のように二人して首を傾ける姿は少し可笑しかったけれども、それを見て笑う者は今この場にはいない。
やっと表情から驚愕に似た色を消した山本は、それでも不思議そうにしたままヒバリに問いかけた。
「そういや卒業式終わったのに、ヒバリ、まだいるのな」
「…なんだそんなこと」
居ることを前提に此処まで息を切らして来たくせに、言うに事欠いてそれかとヒバリは興ざめし、山本から目を離した。自分が卒業していようがいまいが、そんなことなどヒバリにとってはどうでもいいことであり、ただ自分はこの場所が好きだから此処に居る。それ以上も以下もない。
素気ないヒバリの態度と見えない現実に山本はまた首を傾げたが、その表情にもう驚きはなくいつものようなほがらかな笑みを湛えて言った。
「まぁ俺はもう1年またヒバリと中学生出来るんならそれはそれで別にいいんだけどなー」
「僕のことは別にいいよ」
「ん?」
ヒバリの言葉に、山本の意識がヒバリに向けられる。視線と共にそれを受け止めて、ヒバリは山本に問いかけた。
「君は、どうするの」
「なにが」
本当によく分かっていないという様子で山本は問い返した。ヒバリはじっと山本を見つめていた。ほんの少しの、1mにも満たない距離にいる山本を何処か遠くに感じて、一度目を閉じると距離を取った。山本に背を向けて、対面のフェンスに足を運ぶ。山本はそんなヒバリを目で追うだけで、その足を動かすことはなかった。
屋上の横幅分だけ距離が開いて、ヒバリは改めて山本に向き直った。山本がずっとヒバリを見ていたため、目が合う。物理的距離が開いたのに、隣に立っていた時と声量を変えずにヒバリは問いかけられたままの山本の言葉に答えた。
「来年、今度は君が此処を卒業するよ」
「そうだな」
「そしたら君は、どうするの」
何処に行くの。此処を離れて、この町も出て、君は何処に行くの。
野球を極めるのなら、強豪校に通うのなら、山本は並盛を出ていくことになるのだろう。並盛に其処まで強い野球の名門校がないことくらい、ヒバリだって知っている。
静かに問われて、山本はほんの少し笑みの質を変えた。それから空を仰いで、いつものように、いや、いつもよりも底抜けに明るい声を出した。
「そうだなー。まだ全然考えてなかったけど、もう考えないとダメだよなー。どうすっかなぁ。野球はやりてぇよな。皆で強くなるのも悪くねーけど、やっぱり強い処で揉まれて見たい気もするし…」
「僕は忘れるよ」
山本の声色とは対照的な、静かな落ちついた声が山本の言葉を打ち消した。空を仰いでいた山本が視線を下ろし、ヒバリを見た。
ヒバリの表情は変わらない。ヒバリの胸中はヒバリ自身、自分でも不思議な程、凪いでいた。まだ冷たい風が二人の間を通り過ぎていく。その風に紛れ、ヒバリの声が解放感に満ちた、狭い屋上に響いた。
「君が並盛を出ていったら、僕は君のことを忘れるよ」
「……」
無表情で、無感情な声を紡ぐ。飾り気のない真っすぐな言葉を受けて、山本は笑った。
「そっか、ヒバリは俺のこと忘れちまうのか。それは、ちょっとヤなのなー」
「嘘じゃないよ」
「うん、分かってる」
それだけ言ってまた山本は空を仰いだ。ヒバリも視線を上げてみる。冬の名残を残した薄い空はまだまだ薄ら寒く、とても春を感じられるものではない。
また視線を下ろして山本を見た。山本はまだ空を見上げている。遠くを見つめているその眼が何を見ているのか、ヒバリには良く分からなかった。ただ一つ言えることは、彼はヒバリの言葉になど振り回されはしないだろうということだ。きっと彼は彼の道を貫く。今、この場で明言しないのが良い証拠だ。
風に一枚の花弁が舞っている。目で追えばそれは高く高く舞い上がって、太陽光に紛れ見えなくなってしまった。きっと今目にした花弁のことなど、きっと明日には忘れているだろう。だから。
「本当だよ」
独り言のように呟いた言葉は届かなかったのか、山本はもう反応しなかった。
(見えるところに君が居ても分からないのに、見えなくなったらもうどうしようもないよ)