「俺も優しくされてーなー」
ぽつりと零された呟きに、ヒバリは伏せていた目を開き、視線を挙げて対面に座っている山本を見た。頬づえをつき、口元に笑みを浮かべながら、山本もヒバリを見つめていた。目があったが、先程からずっと視線を感じていたのでヒバリは驚くこともなく、その黒い瞳に映る自分の姿を認めていた。
「意味が分からないんだけど」
「なんでだよ。そのまんまなのな」
「俺も優しくされたい? なにがそのままなのか分からないね」
ヒバリが再び視線を伏せたのとほぼ同時に、ウエイトレスがコーヒーを運んできた。それぞれの前に置かれたホットコーヒーに、互いの姿が映り込む。
二人のちょうど真ん中ら辺に置かれたシュガーポットに先に手を伸ばしたのはヒバリの方で、細い指先で蓋を開けた。出されたコーヒーには目もくれず、山本はヒバリから視線を離さないまま、一度途切れた会話を再開した。
「ロールやヒバードにはヒバリ、昔から優しいのな。妬けるなーと、ふと思って」
「別に優しくしてるつもりはないけど」
「えー、優しいだろー。ロールがヒバリ刺しても怒らねぇけど、俺がヒバリ刺したら絶対怒るだろ」
「なんでぼくが君に刺されるの」
「いや、例えばの話だけどよ」
「もっと現実味のある話をしてくれるかな」
くだらないと吐き捨てられ、山本は大げさに首を竦めた。そんな山本には目もくれず、ヒバリは小さなシュガースプーン一匙分の砂糖を掬いあげた。
「そのくらいでいいんだ」
「…なにが?」
脈絡のない山本の言葉に、ヒバリの手が止まる。訝しげな目を山本に向ければ、山本はヒバリではなく、ヒバリの指先にあるスプーンに盛られた砂糖を見つめていた。
ヒバリに目を向けないまま、山本は身を乗り出してシュガーポットに手を伸ばした。
「これの中身がヒバリのロールやヒバードに対する愛情だとする。で、このコーヒーのなか、つまり今のブラックな状態が俺への愛な」
まだたっぷり入っているシュガーポットを指先で持ち上げ、軽く揺らす。次いでヒバリの前に置かれたコーヒーを指さし、山本は確認するようにヒバリを見た。
ヒバリは山本の視線を目で追っていたため、山本を見てはおらず、自身のコーヒーを見つめていた。
「で、そのくらいでいいのな。その一匙くらいでいいから」
中途半端な状態で止まったままのヒバリの手を取れば、ヒバリは視線をあげて山本を見た。山本もヒバリを見つめていたため、再び二人の視線が絡み合った。今度は山本が先に視線を外す。ヒバリの手をコーヒーに誘い、小さなスプーンに乗った砂糖をコーヒーに入れる。
ヒバリは手を振り払うでもなく、それを見つめていた。再び視線をあげれば、三度、目があった。山本が静かに言葉を紡ぐ。
「俺のことも、愛してほしいのな」
砂糖がカップの底に沈んでいく。水底は深い黒色のせいで見えることはないけれど、かき回さなければ溶けきらずに残っていることだろう。山本の手がヒバリから離れた。ついでにスプーンも取り去り、ポットの中に戻した。
空いた自身の指先を、ヒバリはしばらく見つめていたが、口を開かぬまま何事もなかったかのようにスプーンでコーヒーをかき混ぜた。ざりざりとした感触が指先に伝わるが、それもいつしかなくなり、カップとスプーンの擦れる音だけが小さく響いた。
一度萎んだ会話の花は再び開くこともなく、ヒバリは自身のほんの少し甘くなったコーヒーに口を付け、山本は一度もカップに手を伸ばさないまま、窓の外を見つめている。
カチンとヒバリのカップがソーサーに戻されたのを契機に、ヒバリが視線を挙げた。山本を見て、ほんの少しだけ唇の端を吊り上げる。
「…そんなに僕に愛されたいのなら、愛してあげてもいいけど?」
「ん?」
ヒバリの言葉に、山本はヒバリに視線を向けた。うっすらと浮いた笑みは昔よく見たものだったけれど、山本がそれに見惚れるよりも早く、ヒバリは鋭い言葉を振りかざした。
「その代り、ちゃんと飲んでね」
「え」
ヒバリの手がシュガーポットに伸びる。山本の視線の先で、それは逆さまに返された。山本の目が見開かれる。ヒバリは薄く笑んだまま、シュガーポットを元の位置に直すと席を立った。
「時間だ、僕は行くよ」
特別に、僕がご馳走してあげる。そう言い残して、ヒバリは伝票を手に去って行った。残されたのはカップに山盛りになった砂糖だけだ。山の下には黒い液体があるはずだが、それはもはやコーヒーと呼べはしまい。
恐る恐る、かき混ぜてみる。山は崩れ、なんとか水面が見えるまでになったが、ざらざらとした感触は消えることはない。飽和量を優に越えていることは目に見えて明らかだったので、飽和量の概念それ自体を山本はとうに忘れ去っていたが、その現象を不思議がることはない。
まだ渦巻いている中身を見つめながら、山本はカップに口を付けてみた。途端に口の中に広がる、かつてない甘みと苦みに眉をひそめる。もう一口飲もうとして、途中で手を止めた。
ヒバリの笑みが蘇る。
『ちゃんと飲んでね』
「手厳しいのな…」
持て余した苦く甘いコーヒーに、山本が零した溜め息を聞く者はこの場には誰もいなかった。