群れるしか能がない草食動物は咬み殺してしかるべきだと、僕は思っていた。僕はそのための牙を持っていた。そう、持っていた。今はもう持っていない。
僕の牙は彼に、山本武に、奪われてしまった。



彼は僕のためになにもかも捨てたのだと言う。野球もその仲間達もみんなみんな僕のために捨てたのだと、僕の髪を頬を撫でながら曖昧な笑みを浮かべたまま言い放つ。
僕はそれをただぼんやりと聞いている。その言葉は嘘じゃないか、だって君にはまだ沢田綱吉も赤ん坊もいる。獄寺隼人や笹川了平だっている。だからその言葉は嘘じゃないか。そう思ったこともあるけれど口にだしたことはない。別にどうでもいいことだった。



僕からなにもかもを取り上げた彼は僕を海の見える部屋に押し込めた。
「綺麗だろ?」
そう言った彼は明るく笑っていた。その手にはこの部屋の鍵が握られていることを僕は知っていた。僕を此処に閉じ込めるための鍵だ。それがなんだというのだろう。僕はそれを奪う気すら起こらなかった。
窓一面に広がる碧は確かに美しいけれど、美しいものは3日もすれば飽きるという。僕は最初からそんなものにも興味はなくて、ただ日長なんの感情もなく青と白と碧を網膜に映すだけだ。



扉の向こうで、何度か僕の名を聞いた。
「ヒバリさん、ヒバリさん」
僕はそれに応じたことはない。最初の頃は呼ばれる度に扉を見たけれど、僕が応じる前にいつだって聞き慣れた声が響いた。
「何してんだ?」
僕にはよく馴染んだ声だったけれど、ドア越しでもその声を聞いた存在が怯えたのが分かった。
「や、まもと…」
「ツナ、ヒバリになんか用か?」
「用というか…、ヒバリさん、まだ悪いの? そろそろシャマルでも誰でも、医者に見せた方が…」
「や、大丈夫大丈夫。んな心配いらねぇって」
「でも」
「大丈夫」
どうやら僕は病気か何かにされているようだった。薄い扉で彼らがどんな表情を浮かべて会話しているのか、僕の頭は想像しようとしたけれどそのイメージはいつも結局茫洋としたまま映像にならず終わる。
ヒバリ、ヒバリさん、恭さん、恭弥。扉の向こうから聞こえるそれらはどれも僕を指す固有名詞だけれど僕は一度も応じないままだった。
一声出せば何かが変わったかもしれないけれど、声の出し方も今はもう忘れかけている。
また扉の向こうから何かが聞こえてきた。僕の鼓膜は震えるのに、僕の頭はそれをもう意味のあるものとして認識しなくなっている。ただ音にだけ反応してちらりと茶色いそれを一瞥すると、口を閉ざしたまま視線を紺碧に移した。今日も外は晴れていた。



牙を失った僕はもうなにも出来ない。牙は僕の腕であり足であり、目で耳で鼻だった。
もちろんそれは比喩の話であり、僕の四肢は今も身体についていて目も耳も鼻も欠損していない。彼いわく、僕のなにもかもは綺麗で取っておきたいのだそうだ。
「ゴメンな、痛いよな、本当にゴメンな。あんなに綺麗なのに、こんなにしちまって…」
彼は僕を初めて此処に連れてきた日にそう言った。包帯や痣だらけの泣きそうな顔で僕の顔を覗き込み、僕の手を握りしめていた。虚ろな意識のなかそれだけは覚えている。けれどそれもいつまで覚えていられるのか自信がない。最近いろいろなことを忘れている気がする。
僕はどんな人間だっただろう。思い出そうとすると頭が痛んだ。
「疲れてんだな。今日はもう寝ちまえ。な?」
僕が訴えると彼は決まってそう言った。答えは返って来ない。僕はそうしていつからか問い掛けるのをやめていた。あらゆる行為をやめていた。
この部屋のものは何一つ変わらないまま、僕だけが変わっていく。最初は斑に赤黒く醜かった肌は戻り、今は包帯も眼帯も必要がなくなった。少し伸びた髪はこの間彼が切った。切りすぎちまった、悪いと彼は笑っていた。
先程も言ったが、僕の身体は五体満足のまま何一つ欠けていない。意のままに動かせるんだ。何処にだって行けるし、なんだって掴める。
この世で一人にしか開けられない、僕と世界を隔てるその扉に鍵など掛かっていないことを僕は知っていた。
けれど僕の指先はドアノブに触れたことすらない。僕の足は扉に近寄ろうともしない。だから僕は何処にも行けないし、なにも掴めない。



牙を失う前の僕は、自分をなんだと思っていたんだろう。少なくとも草食動物ではなかったはずだ。
今の僕は草食動物ではない、だって僕は群れてない。何時だって独りだ。じゃあ鳥だろうか。この部屋は鳥籠か。
いや違う。僕は飛ぶことも出来ない。まだ飛べない雛たちですらない。この部屋はそう、殻だ。



彼は此処に来て、たまに写真を撮る。彼の大きな手にあるのは父親にもらったという、フィルムのアナログなカメラだ。僕にカメラを向けてシャッターを切る。僕はそちらを見ない。それでも繰り返しシャッターは切られ続けた。
その写真の真ん中にいるのは、被写体は確かに僕だけどそれは人物写真というより風景写真に近いものであると僕は思う。僕はもはやこの部屋の一部だ。溶け込んでいる。
フィルムに焼き付けられるそれが現像されたって見るのはきっと彼一人だ。彼はきっと誰にも見せない。これは確信だ。あぁでも僕には見せようとするかもしれない。けど僕は見ない。鏡すら見ていない僕は僕がどんな顔をしているのかさえ忘れてしまいつつある。
「ヒバリ」
音に反応して僕はそちらに目を向ける。カメラを構える彼がいた。僕は僕に向けられるファインダーをなんの感慨もなく見つめる。
カメラの向こうから少しだけ、彼は顔をだした。笑っている。薄い笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
山本武の、唇が動く。
「笑えよ」
そう言われて僕は―――。



此処は卵の内側だ。僕はただぼんやりと、いつか孵る日を夢見てる。