静寂に満ちた部屋で、不意に声が響いた。
「ねぇ」
そこには二人しかいないので呼び掛けられたのは山本であること疑う余地もなく、山本は素直に声の主の方に視線を向けた。
ヒバリはベッドに寝そべった姿勢で山本を見上げている。
「ん?」
笑みを浮かべながら問い掛ければ、ヒバリも愉快そうに目を細めて唇を吊り上げた。
「堕ちていく、感覚ってどんな感じ?」
「なんだそれ」
山本は笑いながらほとんど意味を成していないネクタイを解き、仕舞った。大分着崩しているとはいえ、やはり堅苦しいスーツとYシャツからラフなものへと着替える。
その様子を、ヒバリはベッドに横たわり眺めていた。その口許には笑みが浮かべられたままだ。
「足が何処にもつかない感覚、手を伸ばしても何も掴めないのって、どんな感じなの」
「なんでそれを俺に聞くんだ?」
「だって君、屋上から落ちたことあるんだろ」
さらりと言ってのけられた言葉に、山本が一瞬動きを止める。
それを見逃すヒバリではなく、さらに目を細め、愉悦の色を濃くすると、「飛び下りようとしたんだっけ?」と言葉を続けた。
「まぁ、なぁ…」
言葉を濁しながら、山本は苦く笑う。
若気の至りで済ますには少々過激な体験かもしれないが、それを仕出かした事実を今更消せはしない。
「なんでまた、んな昔のこと」
「ふと思い出したから」
「んー…、あんま覚えてねぇのなー」
山本は困ったように眉を寄せながら、首を傾げ頭を掻いた。ちらりとヒバリに視線を向ける。
俯せのまま、顔だけを横に向けて山本を見つめる目を見つめ返して、そっと微笑みを向ける。
ベッドサイドに膝をついて、ヒバリの輪郭を指先で辿り髪に触れても、ヒバリは何も言わなかった。
寝起きのはずなのに、機嫌がいいのは珍しい。山本は心のなかで呟く。
無造作に部屋の扉を開けたらヒバリがいたので驚いたのはつい数分前のことだ。ベッドで寝ていたヒバリはぱっちりと目を開けて「お帰り」と言った。
昔のように起こしただけで殴り付けてくるようなことはなくなったけれど、いつもなら不愉快そうに顔をしかめる。それすらもなかった辺り、余程寝覚が良かったらしい。代わりに山本自身も忘れかけていた過去を引っ張り出されたわけだけれど。
「思い出して」
ヒバリが身じろいで手を伸ばす。その指先を山本が目で追えば、骨っぽく細いそれは山本の頬にたどり着いた。
「聞きたい」
縋るものがなにもないのは、どんな感じなの。
そう音を紡いだ唇に、山本はそっと唇を重ねた。近くなった距離で視線を絡め合う。瞳のなかの自分は、そこでしか見られない表情をしていた。
山本が前にズレたために宙に浮いていた手を山本は取った。
いつの間にか笑みを消していたヒバリの髪をもう片手で撫で、子供に言い聞かすように薄く笑みを浮かべながら山本は言った。
「凄く怖ぇよ」
俺の人生のなかで、多分一番怖かった。
「………」
静かに語る山本を、ヒバリはただじっと見つめている。奥の奥まで入り込まれるような、逆に吸い込まれるような視線にも山本は目を逸らさずに正面から受け止めた。
怖かった。その気持ちに嘘はないけれど、今は屋上から落ちるよりも、何も掴めず落ちていくことしか出来ないよりももっと怖いことがある。
けれどそれを口にする気はなくて、山本は不意に笑みの質を変えた。
「でも俺の場合、ツナが助けてくれたんだけどなー」
今までの空気を粉々に砕くように破顔した山本に、ヒバリの目が途端に冷たくなる。
あからさまに興味を無くした様子のヒバリはぷいと山本から顔を背けると枕にその頬を押し付けた。
「あ、なんだよその態度」
「うるさいよ、僕はもう寝るから」
「ヒバリが聞きたいって言ったのなー」
こっち向けよとパジャマを引っ張れば欝陶しいと手で払われた。
つんと拒絶する背中を見つめて、山本は小さく息をついた。
おもむろに、ヒバリを跨ぐようにして横に手をつき、背けられた顔を覗き込んだ。
ふて腐れたような視線が向けられる。
「なーに怒ってんだ」
「怒ってないよ」
「嘘、怒ってるだろ」
「怒ってない」
「ツナに妬いた?」
「………」
からかうように投げかけた言葉に、ヒバリの目が鋭くなる。本気で怒らせたことを察した山本は直ぐさま謝罪して投げ出されていた手を取り指先に口づけた。
これから自分を虐げるかもしれない手を慈しむように包み込めばヒバリの視線はほんの少し緩やかなものになった。
危機は去ったらしい。それに胸を撫で下ろしているとヒバリがぽつりと口を開いた。
「でも、沢田綱吉はよくやってくれたよね」
「ん?」
「並中が君の血で汚れずに済んだ」
良かった、そう呟くヒバリはまた機嫌よく目を細めている。
それは自分が生きてて良かったということか、山本はそう問い掛けようと思ったがやめた。
ヒバリは純粋に並森中学校のことだけを思い、そんなことを言っているに決まってる。
ほんの少し、自分の想像を残念に思ったけれどヒバリのそんなところも山本は好きなのだから文句は言うまい。
「なぁヒバリ、俺も質問していいか?」
「何?」
「なんでヒバリ俺の部屋で寝てんだ?」
「………」
途端にヒバリは口をつぐんだ。
山本が無造作にこの部屋の扉を開けたのは、此処が自分の部屋でヒバリがいることを想定していなかったためだ。
久しぶりに家に戻ってきて、靴があるからヒバリが在宅なのは分かったが夜も遅かったので直ぐに自室に向かった。
そこで当然のように寝ているヒバリを、山本を迎えたヒバリを見て山本は目を瞬かせたのだった。
ヒバリは答えない。山本の面白がるような視線から目を逸らして考える素振りを見せている。
やがて小さく口を開いた。視線は山本に向けないままだ。
「君の、」
「ん」
「布団はもう冬用でしょ」
僕のはまだ夏用なんだ。
寒いからと続けたヒバリに、最高の笑みを向けると山本は横になってその身体を抱きしめた。



(何も掴めず、なす術がないよりも、掴んだものを失う方がきっとずっと怖くて仕方のないことだと、俺は思うんだ)
(なぁ、ヒバリはどう思う?)