目の前にいる人のよく動く唇をヒバリはじっと見つめていた。
その人の楽しそうに細められた目もまた同じようにヒバリを見つめ返している。
「でな、………」
「………何?」
二三度の瞬きの後、不意に途切れた言葉にヒバリは眉一つ動かさずに問いかけた。
問いかけられた方、山本はまた瞬きを一つして笑顔のまま問い返した。
「聞いてっか?」
「聞いてるよ」
「そか。…でな?」
「うん」
短いやり取りの後、山本はまた笑みを形作る唇を動かして続く言葉を紡いだ。
ヒバリはそんな山本を会話の相槌も打たずに頬杖をつき、ただ黙って見つめている。
時計には目を向けない。携帯電話も何度か震えているのに気づいていたが、
ポケットにしまい込んだままヒバリはひたすらに山本にだけ視線を注いでいた。
山本の話を聞いていると、こうして山本を見つめていると、この男は何がそんなに面白いのだろうとヒバリはいつも思う。
能天気な笑みを浮かべている理由がよくわからないが、何度尋ねてみてもヒバリが納得のいく答えが返ってきたことはなかった。
ヒバリの視線の先、不意に山本の笑顔の質が変わった。
底抜けに明るい夏の日差しのようなものから、何処か穏やかな冬の明かりになった。
「今日は、怒らないのな」
ぽつりと山本が呟く。
「誰が?」
「ヒバリ。いつもなら『すぐに本題に入れ』って言うのに」
「言ってほしいんなら言うけど」
「いや。嬉しいのな。最近、あんまこうしてゆっくり話してなかったから」
そう言って山本は手元のグラスに手を伸ばした。傾ければ少し小さくなった氷が音を立てる。涼やかな澄んだ音だった。
「そんな日もあるよ」
「そか。そんな日もあるか」
「うん」
会話が続かないのはいつものことなのでお互いに気にすることはない。
山本はグラスに口をつけ、またテーブルに戻した。山本が口を開かねば二人の数少ない会話は始らず、 二人の間に穏やかな沈黙が流れた。
ヒバリの視線はずっと山本に向けられたまま離れない。しばらく空になったグラスに向けられていた山本の視線は ヒバリの一声で動かされた。
「ねぇ」
「ん?」
ヒバリは頬杖をついていない左手の指先で山本を招いた。
不思議そうに少し首を傾げながら、それでも無防備に身を乗り出した山本にヒバリも姿勢を崩し椅子から腰を浮かせた。
内緒話でもするように顔を近づける。山本を招いた指先が山本の緩く締められたネクタイを引っ張った。
不意を突かれた山本の目が驚愕に開かれる。二人の距離が零になった。
「わ…っ…、いっ…!」
「………」
零距離は一瞬で、再び二人の間に距離が生まれたが会話をするには近すぎる、今なお鼻先がぶつかりそうな距離を保っていた。
ヒバリが山本のネクタイを掴んだままでいるためだ。
お互いの影で視界が薄暗い。そんな状態で二人は目を合わせた。
少し寄せられた山本の眉の下にある目は少し潤んでいる。ヒバリは涼しげな瞳でそれを見つめていた。
「ヒバリ、痛ぇよ」
「だろうね」
声まで潤んでいる山本にヒバリは興味を失くしたように手を離してまた席に着く。
山本は口を真一文字に結んで、痛みを訴える、ヒバリに噛まれた鼻をさすった。
縮められた距離で唇が重なることはなく、甘噛みなんて可愛いものではない力で歯を立てられた。
「なんだよいきなり」
「別に。意味なんてないけど」
悪びれることなくそう言ってのけたヒバリはもう山本を見ていない。
山本はしばらく顔をしかめていたが、かたく閉ざされていた唇がゆるゆると綻んだ。
それを横目で見ていたヒバリの方が、本日初めて露骨に眉を寄せた。
「…何、笑いだしたりして」
「いや…今日のヒバリ、やけに俺のこと見てんなーって思ったら、ずっと俺のこと噛むタイミングを計ってたのな」
「だったら?」
「だったら?…だったらなぁ…」
山本はヒバリを見つめたまま、答えを探すように言葉を切った。閉じた唇が吊りあがっているのにヒバリは口をへの字に曲げた。
「なんか、嬉しい、のな」
「…馬鹿だね」
「ハハ、うん、今更だろ」
「改善しなよ」
「無理無理」
「………」
間髪入れず笑顔で返ってきた言葉にヒバリは不愉快さを隠さずにむくれて見せたが山本は気に留める様子もなく、 愉悦で縁取った細めた目にヒバリを映していた。
笑顔という言葉にしてしまえば一つしかないのに山本が浮かべる笑みは何種類もあるとヒバリは思う。
おそらく山本は数々の笑顔の仮面を無意識に付け替えているのだろう。
今山本が浮かべている笑みは彼の持つ笑みのなかで最も穏やかで緩やかであり、そのくせ鋭く内側に切り込んでくるような錯覚にヒバリを陥らせる。
その感覚が不快では決してないということをヒバリは山本に告げる気はなかった。自分だけが知っていればいいと思う。
「僕はもう行くよ」
もう付き合っていられないとヒバリは席を立った。山本に目もくれず踵を返す。
山本はそんなヒバリを見上げたが、すぐさま声をかけた。
「あ、ヒバリ」
「何…、」
返事だけして、ヒバリに振り向くつもりはなかった。
肩を掴まれて思いきり引かれる。つられるようにその力の方に向いた顔に唇が触れる。
一瞬だけ、それでも確かに重なった唇にヒバリの瞳が丸くなった。
山本は己を見つめる目にニッコリと笑って見せた。
「…場所を弁えなよ」
喫茶店の一角にしか過ぎないこの場の周りの席はみな埋まっている。
ヒバリの言葉に山本は朗らかに笑った。
「最初に人の鼻噛んでくれたのはそっちだろー?」
「何、根に持ってんの」
「んなことねーけど」
「………」
「じゃ、またな」
会計の伝票を振ってヒバリに背を向け歩いて行く山本をヒバリは睨みつけ唇を拭った。
ただ黙って見つめてやったことに、鼻に噛みついてやったことに、嬉しいと笑った男は一度も振り返ることなく 店を出て行った。
「…何をされても、嬉しいんじゃないか」
馬鹿な奴。
なんて言ってやってもきっとまた喜ぶだけだろうとヒバリはなんとなく思った。
『今更だろ』
そう言った山本の笑みを思い出しヒバリは眉を寄せる。
今度そんな言葉を口走ったら、噛み殺そうと心に決めた。



そんな今更だなんて言葉になるほど、月日を重ねてたなんてね。