静寂に満ちていた応接室に欠伸が一つ舞う。
山本が聞こえてきたそれに読んでいた雑誌から目をあげヒバリを見れば、ヒバリはうっすらと目尻に浮かんだ涙を拭っていた。暴力などまるで知らぬような細い指先に透明な滴が移る。そしてヒバリは何事もなかったかのようにまた委員会の報告に目を通していた。
山本は口を開かず、そんなヒバリの様子をじっと見つめていた。見ていて思う。普段より、瞬きが多い気がする。
「眠ぃの?」
所作の全てから総合的に判断し、雑誌を開いたままヒバリに問掛ければ、ヒバリはちらりとも山本を見ずに応じた。
「眠いよ。ものすごくね」
強がることのない素直な言葉が返ってくる。ヒバリの視線はずっと報告書に向かっているが、ぱちぱちと繰り返される瞬きが段々と回数を増し、また目を閉じている時間が長くなってきている。そのまま開かなくなるのは時間の問題のように思えた。
「寝たら?」
急ぎの書類ではないようだし、そんな状態で報告書が頭にはいるとは山本には思えなかった。だったらいっそのことひと眠りして、すっきりしてから取り組んだ方がいいのではないだろうか。
山本の提案に対し、ヒバリはやはり、山本を見ない。またひとつ、欠伸が零れた。
「寝たいのは山々だけど、煩いと寝られたいタチなんだ」
「今静かじゃんよ」
放課後の今、校舎内の騒音は少なく、部活動の声も聞こえない。ひっそりと静寂に満ちた校舎内は寂寞さえ感じさせた。
「君が、煩いんだ」
例えヒバリが相手にしなくとも、山本はなんだかんだ話しかけている。君がを京証することで間接的に責められて、山本は少し眉を下げた。だがこの場から去ってやろうとは欠片も思っていないため、腰を上げることも荷物を纏めることもしなかった。
だいたい、ヒバリが本気で山本を鬱陶しがったなら言葉ではなく力で部屋から追い出されている。だから、大丈夫。そんなことを考えている山本の前で、読み終った書類をヒバリは机に投げ置きソファに寄りかかった。
「出てってくれる? 僕寝るから」
ヒバリは靴を脱ぎソファに足を乗せた。学ランも脱ぎ、上かけにする。少し丸く、小さくなった身体は山本の脳裏に黒猫を描かせた。もぞりもぞりと落ち着く態勢を探しながら学ランの下でうごめく身体を見つめながら、山本はやはり動こうとしなかった。
「静かにしてっから」
「無理だろ」
「平気平気」
「どんな小さな音でも僕起きるよ」
「ぜってー起こさねぇから」
「…起こしたら咬み殺すから」
「あいよ」
ヒバリはしばし山本を睨むように見たが、そのまま黙ってソファに横になり目を閉じた。山本はしばらくまた雑誌を見ていたが、先程からずっと読んでいたものだ。ほどなくして開いていたページの文字を読み終えた。
ページを捲りたいが、生憎無音でページを捲る術を山本は持ち合わせてはいない。仕方なく読み終えた誌面を漠然と眺めて、聞こえてきた寝息にまた顔をあげた。
(おやすみ3秒ってか…?)
すやすやと眠るヒバリをテーブル越しに眺め、山本は亀のようにゆっくりと靴を脱ぎ息を殺しながらヒバリに近付いた。ひたりと靴下越しに床を踏む。
ヒバリの寝息に変化はない。先程から一定の感覚で繰り返されている。黒い学ランが上がっては下がっている。よく見なければ分からない変化だった。どうやら近付く分には起きないようだ。
ヒバリのことだから、人前では寝れないとか、人の気配に反応して起きるとか考慮していただけに山本は胸を撫で下ろす。
山本だって、好き好んで咬み殺されたくはない。
山本はヒバリの前まで来て、しゃがみ込んでその顔を覗き込んだ。人形のような寝顔に山本の影が落ちる。
ヒバリは腕置きを枕にして横向きで寝ていた。腕がソファからわずかにはみ出て、手が力なくだらりと下がっている。このまま放置したらヒバリが目覚める頃には手は冷たくなってしまうだろうことは容易に想像できる。だが触れていいものか。
山本はしばしその白い手を見つめ悩んだ。選択肢はたった2つだ。どちらにしようかな、頭の中で神様に問いかけて、そしてそっと手を伸ばした。
急に心臓が高鳴り始めたのがわかる。こんな緊張、2アウト満塁ツースリーの時だってしないだろう。
ヒバリの様子をちらりと窺って、山本の手がヒバリの手に触れた。
「………」
ヒバリは目覚めない。山本はゆっくり息を吐いて緊張を解いた。
(寿命縮むなこりゃ…)
そっと手をソファに戻してやって、また見つめる。常には見られないものだ。存分に見ておこう。
(咬み殺すとか言わなきゃ、可愛いげがあると思うんだけどなぁ…)
そんなことを思いながらおもむろに立ち上がり、静かにブレザーの上着を脱ぐとヒバリにかけた。



不意に意識が覚醒した。そしてすぐ側に人の気配を感じ、ヒバリは瞬きを繰り返しながら徐々に目を開けた。音に反応して目覚めた訳ではないので、ぱちりとは目が開かない。
視界にはテーブルとソファがある。人はいない。眠る前、対面のソファにいたはずの人間はいなくなっていた。
「………」
だが気配はする。黙って視線を下げれば、机の向こう側にいたはずの人間が寝ていた。床に座り込み、ソファを背もたれにして上を向いて寝ている。骨格の関係か、口が開いていた。なんて間抜けな面なのだろう。
そんなことを思いながらヒバリは黙って見つめた。そしてゆっくりと身を起こすと筋を伸ばした。
弾力があるわけではない革張りのソファに横向きの体勢で寝たため、体が軋む気がする。床で寝るよりはマシだろうが、疲労が取れた気はしない。それでもひと眠りして眠気が収まったようなのでよしとした。
ふと自分の学ランより足元寄り、腹部から膝辺りにかけてかけた覚えのない上着が掛けられているのに気が付いた。視線を上着から山本にずらせば山本はワイシャツで上着を着ていない。肌寒いのか、山本の腕は組まれていた。
(バカは風邪ひかないからいいのかな)
時計を見れば下校時刻間際だ。もうすぐ放送が入るだろう。放送に起こされた方が寝ざめはすっきりしていただろうか。頭の隅でそんなことを思ったが、どうでもいいことだ。
再び掛けられた上着と、山本に視線を戻した。今度はしばしじっと見つめる。いくら眺めても、阿呆であるとしか思えなかった。
むくむくと胸中に湧きあがってきた衝動のままに、ヒバリは山本に手を伸ばした。頬を指先で触れる。思い切り無防備な山本の頬をつねりあげた。
目を瞬かせて飛び起きた山本を見つめ、一言告げる。
「邪魔なんだけど」