どうしてこんなにも擦れ違うんだろう。
そう言って君は泣く。
涙を流しはしないけど、苦しいと言って君は泣く。



こんなつもりじゃなかった。
膝を抱え顔を埋め、そう呟いた男にヒバリは視線を向けた。
「君は何がしたいの。何を望んでいるの」
閉められたブラインドの向こう、世界は朝を迎えようとしているけれど、二人がいるこの部屋に朝はまだ訪れない。
薄闇が守るように広がり、二人を覆っていた。
静かに問い掛け山本を見つめながら、ヒバリは胸をチリチリと焦がしていく名も知らぬ感情にほんの少しだけ目を細めた。
今現在ヒバリの視線の先にいる男は大きな身体を小さく丸めて小動物のようにうずくまっている。
そんな山本をヒバリは時折瞬きを繰り返しながら黙って見つめ、返らない言葉を待っていた。
ヒバリは山本に問い掛けたのに、山本は全く反応を返さない。普段のヒバリなら誰かがそんな態度を取ろうものなら機嫌を損ねて制裁を加えていることだろう。
けれど今ヒバリの胸中は自分でも不思議な程凪いでいて、落ち着いた心地でじっと視線を向けて山本の言葉を待ちながらふと頭の片隅でちらりと思った。
こんな風に彼をちゃんと見るのはいつぶりだろう。
山本武という男は脳天気な野球馬鹿で、見るとたいていバッドを背負って底抜けに明るい笑み浮かべていて、口を開けば訳のわからないことばかり語り出す。
背は年下の癖に自分より高くていつも見下ろしてくるのが少しばかりヒバリは気に食わないと思っている。
大きく広い肩をしていて、野球のことばかり紡ぐ唇が別の言葉を紡ぐとき、程よく筋肉のついた腕が後ろからそっと抱きしめてくる。
そうしてまた先程呟くように告げてきた言葉をもう一度耳元で囁くのだ。
『好きなんだ』
そうして輪郭を辿るように、ヒバリを抱く腕に力を込める。
山本武とはそんな男だと、ヒバリは思っていた。いや、実際そういう男だった。
だがしかし、今ヒバリの目の前にいるのは暖かく眩しい程の明るさなどカケラもない、どうしようもない現実にうちひしがれるだけの仕様もないつまらない男でしかなく、いつの間にこんなにも変わっていたのだろうとヒバリは独りぽつんと取り残されてしまったように思った。
彼がいつも後ろから抱きしめるから、だから何時からかヒバリの視界から山本が消えて、温もりだけを享受するようになっていた。
瞼の裏に変わらない彼をヒバリはずっと思い描いていた。本物の山本に目をつむり、作り上げた幻影を押し付けていたことに、ヒバリは今漸く気が付いた。
山本があんまりにも塞ぎ込んでいるから、彼が自分にしてきたように今度は自分が抱きしめてやろうと立ち上がり、隣で膝をついて手を伸ばした。
伸ばしたけれど、ヒバリの手は宙で止まり結局山本に触れぬまままた引っ込んだ。
触れ方がわからない。
どうしようもなくてヒバリは座り込んでまた山本を見つめつづけた。
顔をあげて、好きだと言って、また自分を抱きしめて欲しい。
そう願ってただただ視線を送る。山本の少し固い黒髪がかすかに揺れる。
「ごめんな」
「……」
「ごめん、ごめんヒバリ、ごめん」
「なんで謝るの」
「なんでも。…本当、ごめんな」
そう言って山本は顔をあげた。目が合って薄く笑い、その笑みがいつものものとは違う色を帯びていてヒバリは酷く落胆する。
山本はもう一度、謝罪を口にすると腕を伸ばしてヒバリをその胸に抱き込んだ。
前から山本が抱きしめることはあまりなく、だがその少し慣れない感覚にもヒバリは身じろぐことなく大人しくその腕に収まっていた。
前からでも、後ろからでも、結局山本の顔が見れない。山本が見つけられない。こんなに近くにいるはずなのに。
今、自分を抱きしめるのが一瞬誰か分からなくなって、山本なのかその名を呼び確かめることも出来ず、ヒバリはぐるぐると色々な感情が混ざり合っていくのを感じながらそっと目を閉じた。



群れるのが嫌いだった。いや、今も嫌いだ。
傍に来ようとする山本武も嫌いだった。疎ましかった。何度視界から消したか分からない。
それでも彼は傍にいたから、いつしかそれを許容した。好きだと告げる彼を、自分も好きになっていたのだと思う。
でもどうしたらいいのか分からないから。
だから彼がしたいと思うことを受け入れよう、それがきっと人を好きになることなのだと思っただけなのに、彼はただ哀しんで意味のない謝罪を繰り返す。
何処で間違えてしまったんだろう。何がいけなかったんだろう。どうしてこうなってしまったんだろう。
尋ねても多分彼も答えなど知らなくて、また「ごめん」と繰り返すのだろう。
なんとなく、そう思った。



(僕が聞きたいのはそんな言葉じゃないのに)