「…ありゃ?」
そこにいると思っていた人の不在に、山本は目を瞬かせた。
応接室内をぐるりと見回しても、山本が思い描いた黒い姿はやはり見当たらない 。
「んー…」
いないものは仕方がない。山本は次なる心当たり、屋上に向かった。



重い扉を開けば柔らかい風が頬を撫でた。広がるパノラマに開放感で満たされる 。
「んー」
思わず伸びをして、尋ね人を探した。
彼はよく此処で昼寝をしているから、そう思って来たのに屋上の床にその姿はな かった。だからといって彼が、ヒバリが此処にいないとは限らない。
山本は二、三歩踏み出してタンクの上を見上げた。逆光で眩しい。手をかざし影 を作り、目を細めればぼんやりと不自然な存在が見えた。
いた。
「よー」
恐れることなく声を掛ける。
寝ているとは思わなかった。もし寝ていたとしても山本が扉を開けた時点、また は閉めた時点でヒバリは目覚めていただろう。なにしろ不必要なまでに重たい扉 は無音では開けられないし閉められない。木葉が落ちる音ですら目を覚ますとい うヒバリを起こさずにこの空間に立ち入ることなんて出来なかった。
「………」
返事は降ってこない。光に慣れた瞳は、不機嫌そうに眉を寄せる表情をしっかり と映していた。
だからニッコリと山本は笑いかける。
「何か用?」
表情が示す感情をそのまま音にしたような声色にも山本は怯まない。
「別に?特に用はねーなぁ」
「……何しにきたの」
逆光のままでヒバリを見上げつづけるのは正直少し辛いが、それでも山本は笑顔 のまま応じた。
「ヒバリに会いに」
「だから何の用」
「用はねーけど」
用がなくたって、会いたかったから会いにきたのだと素直に告げる。輪郭をぼか す太陽光を背にしているヒバリがほんの少し、身体を移動させたため光が強くな り表情が見えない。
もう目が限界で、山本は顔を背けた。目を擦り、瞬きを繰り返して視界を戻す。
不意に、視界に影が落ちた。何事かと思えばなんてことはない、山本の目を情け 容赦なく貫いていた太陽の光を真っ白い雲が遮っただけの話だった。
それでも世界は明るく、青空が綺麗だ。
山本は改めてヒバリを見上げた。特別興味もなさそうに他のところを見ているヒ バリとは、いくら見つめても目が合う訳もなく視線は一方通行だ。別にそんなこ とを山本が気にすることはない。
ヒバリが自分を見てくれなくてもいい。自分がヒバリを見ていたいと思う。
笑みを浮かべたまま、山本はヒバリを見つめた。穏やかな風に真っ黒い学ランが 揺れている。
全てを塗り潰すことの出来るその色は何色にも染まることはなく、ただただ黒い ままでありつづける。
(あ…)
青い空が広がり白い雲が浮かぶなか、その黒がぽつんと存在していて、山本はそ の両の目に映るまるで作りもののような世界をどうにかして閉じ込めてしまいた いと思ったけれど、きっとこれは切り取ってしまったらなんの意味もないのだろ うと漠然と感じた。
だから山本はただただ見つめ続けていた。こんなに近くにいるのに、今目の前に 広がっている世界が果てしなく遠く感じて手を伸ばすことさえも思い付かないま まただ見つめていた。
「いつまでいる気?」
「んー…」
山本が口を開こうとしたその瞬間、一際強い風が二人をなであげた。山本の視線 の先、さらさらと黒髪が、ふわりと学ランが揺れた。青空とのコントラストが目 に焼き付く。
「…ヒバリ、青空、似合うなぁ」
ぽつりと呟かれた言葉に、ヒバリの視線が山本に向けられる。
目が合っているハズなのに、山本はそれを意識していなかった。ただ絵画のよう な風景を眺めているような感覚に包まれる。生憎山本に芸術を語れるほどの知識 や感性はないけれど。
ヒバリが、鼻で笑う。
「何言ってんの」
くだらないと言わんばかりに目を逸らされる。そしてヒバリはふわりと屋上に降 り立つと山本の横をすり抜けて扉に向かった。
その凛とした後ろ姿も、光を受けて煌めく黒髪も綺麗だと山本は思う。
(夜の方が、似合いそうな気ィしてたんだけどなー)
闇に溶ける色だからなにとなしにそう思っていたが、青空の下でその存在の確か さを主張する様も、悪くない。
「俺もさ、青空似合うって結構言われんだ」
後ろ姿に声を掛ける。もう目の前の世界を絵画として見ていなかった。
「だから」
振り向かないまま言葉だけが返ってくる。
「俺らって結構お似合いなんじゃね?」
「………」
その言葉にはなんの返答もないまま、ヒバリは屋上を後にした。山本だけが開か れたこの場所に取り残される。
「っあーぁ、行っちまった…」
特別残念そうでもない様子で山本は伸びをして空を見上げた。
青空の似合うもの同士、この空のしたで側にいる二人はきっとお似合いだと思うのに。まぁ山本が一方的 に思ってもヒバリがそう思ってくれなければ仕方がない。
「さ、俺も戻っか」
組んでいた手を勢いよく振り下ろして自分も扉に向かう。
青空は全て見ていた。鼻歌混じりで戻って行く山本を、廊下からそんな山本を見 ていたヒバリを。
「ふん」
ヒバリも歩き出す。少しずつ日差しが強くなっていく。
太陽にかかっていた雲が、晴れた。