「俺もいい加減武って呼んでもらいてぇなー」
そう呟かれた言葉をヒバリは黙殺した。
「ちょっ、ムシすんなよ。ヒバリ」
「…僕に言ってたの?」
呼ばれて初めて山本の方を向く。
「なに?」
「何って…、あーもう。だから、俺も名前で呼んで欲しいっつったの。フルネー ムじゃなくて」
「なんで」
「なんか特別な感じするだろ。ヒバリ、みんなのことフルネーム呼びすっから」
山本の言葉にくだらないと言わんばかりにヒバリは溜め息をつき目を逸らす。ぺ らりと報告書をめくる。
それがヒバリの答えを雄弁に物語っていた。
山本は軽い調子ですねたようにまた言った。
「名前で呼んでる人もいるのになんで俺はダメなんだ?」
軽い、戯れでのような言葉だった。
それでもヒバリはぴたりと動きを止めて山本を見る。
二人の目が合う。ヒバリの唇が動く。
「まさかとは思うけど」
そして少し馬鹿にしたように笑った。
「妬いてるの?」
「あぁ」
山本の返事は早かった。
「妬いてるよ」
即座に真剣にそう返せばヒバリは笑みを消してしばし山本を見つめた。
山本は目を逸らさない。目を逸らすのは大抵ヒバリだった。
「嫌だ」
君のことなんて、名前でなんて呼んでやらない。
そうきっぱり言い放たれても、山本はなお食い下がる。
「なんでだよ」
「なんでも」
「答えになってねぇよ」
「しつこい奴は嫌いだよ」
「………」
「男も、女もね」
「………」
山本はしばし口を閉ざした。
沈黙が落ちた部屋でヒバリの起こす紙のこすれる音が舞った。
じゃああと1つだけ、と山本が言えばいいよと視線も向けられずに返事がきた。
山本はまだ一方通行の視線を送りながら尋ねた。
「なら、ならどうすれば名前で呼んでくれるようになる?」
「………本当、しつこい」
ヒバリは溜め息をつくと呆れたような目を山本に向けて逆に尋ね返した。
「なんでそんなにこだわるのかな。たかが呼び方ひとつだろ」
「さっき言ったろ。妬いてるから」
草壁だけ特別扱いされているようで、ずるいと思うから。
胸中を素直に吐き出せばヒバリはじっと山本を見つめ、それからぽつりと言った 。
「哲になれば、呼んであげてもいいよ」
「…は?」
何を言っているのかと、山本が目で問い掛ける。
ヒバリは悠然と続けた。
「君は、いつだって見返りを求めるよね」
「んなつもりは…」
「あるよ」
きっぱりと言い放たれて山本は思わず口をつぐむ。
ヒバリはすっと視線を山本から外した。
「見返りなんて求めない、あいつは」
「俺は…」
「もうお終い。君はさっきあと1つって言った」
ぱたんとヒバリは報告書を閉じる。
「さっさと君は君の仕事をしたら?沢田綱吉から色々言われてるんだろう」
「まぁな」
「ならこんなところで暇つぶしてる場合じゃないんじゃない。怒られても僕は知 らないよ」
「心配してくれんのか?俺が怒られること」
「まさか」
「だよな」
何処か鋭さをもつ微笑みをたたえてヒバリは山本を見やる。 何処となく意気消沈している山本に少し笑みを深くした。
「馬鹿なこと言ったね、あと1つなんて」
「な。あと10くらいにしとけばよかったなー」
「そんなことしたら1つの言葉も許さないよ」
「マジかよ。あっぶね」
他愛ないやり取りをしながらヒバリは何処かへ電話をかけた。
その中で出て来る固有名詞に山本は少し唇をかみ締める。
ヒバリは故意だとわかるような動作で山本を見て、言った。
「じゃあね、山本武」
「おう」
遠ざかる後ろ姿を見送って、山本は大きな溜め息をついた。
「自分でも、馬鹿みてぇって思うけどよー…」
ヒバリと草壁の些細なやりとりが頭に積もって離れない。
そういえば昔も似たようなことでずるいと思ったっけ、と山本は記憶を引っ張り 出す。
確か中学の頃も、ずるいと思った。風紀委員はヒバリの携帯電話の番号を知って いること。あの頃の自分から進歩していないのかと思うと思わず溜め息も出る。
けど。
「大事なことなんだよ、俺にとっては」
だから、なぁ、俺も特別のなかに入れてよ。
こんなに想ってるんだから。
そう思ったとき、あぁこれが見返りを求めてるってことか。そう思った、だけでなく―――。
無意識を見抜かれていることに、ほんの少し、ぞっとした。