「…あり?」
開いた応接室の扉の向こうに、山本が期待した姿は無かった。
室内を一望できる入口に立って誰も見えないのだ。無人の部屋に踏み込んで見回 してもあの学ランを纏う姿を見つけることは出来なかった。
「めっずらしいなー…」
言いながら開けっ放しの窓の外を見る。
今日は絵に書いたような晴天だ。真っ青なキャンパスに綿菓子のような雲がそれ でも何処か重量感をもって浮いている。
屋上で寝てるのかな。山本はそう思い部屋を出て行こうとした。
『緑たなびく並森のー♪大なく小なく並がいいー♪』
ふと聞こえて来た校歌に山本は足を止め、もう一度室内を振り返る。
先程まではいなかったものが山本の目に飛び込んだ。 窓の縁に留まっている、黄色い鳥が並森中の校歌を歌っていた。

「こいつって…」
確か黒曜のアジトに乗り込んだ時に見た鳥だ。いや、その後並森の空を飛んでる のを見た気がする。部活中だったので特別意識していなかったが、何処に向かっ て飛んでいったんだ?
「あ」
記憶の糸を辿れた。確か屋上だった。其処にヒバリがいたのなら、今この鳥はヒ バリが世話をしているってことなのだろうか。
「ヒバリは何かを飼うって感じじゃなさそうだよなぁ」
言いながら苦笑する。戸に向かいかけた足をまた窓に向ける。近付いても鳥は逃 げない。
山本が窓から数メートルもない応接室の机に寄り掛かっても鳥は逃げずに歌い続 けている。
「ヒバリが教えたのかな」
そういえば自分もヒバリに校歌を教わったなと、なんとなく去年のことを思い出 した。



入学直後に強制的に覚えさせられたはずの校歌を、山本は夏が来る頃にも覚えて いなかった。
歌を覚えんの苦手なんだよと言い訳をしながら覚える気も最初からあまりなかっ たわけだが、山本が校歌を歌えないということがヒバリの耳に入った。
どうしてヒバリがそんなことを知ったのか、今の山本は思い出せない。
「君、校歌も歌えないで並中の生徒のつもりなの?」
ひんやりとしたヒバリの声。
山本は笑いながら幾度となく口にした言い訳を繰り返した。途端にキツい目で睨 まれ黙らされる。
肩を竦め素直に口を閉ざせばヒバリはハァと溜め息をついて学生証は持っている かと問われた。
持っていると答えればページを指定され開くよう言われる。言われるがままに学 生証を開けばそこは校歌のページだった。
よく覚えてるなぁと山本は感心したが、そんな山本の様子などヒバリはお構いな しに言った。
「見ながらでいいから、歌いなよ」
「え」
「歌詞見ていいなら歌えるでしょ」
だからさっさと歌えと急かしてくるヒバリに山本は困った。
音程だって山本はしっかり覚えていないのだ。学生証には楽譜も載っているが、 オタマジャクシの羅列を見たところでよくわからない。慣れ親しんでいる和太鼓 の楽譜とは違うのだから。
「えーっと…」
どうしたものかと山本がたじろいでいると早くしろと厳しい声が飛んでくる。
早くしろと言われても歌えないものは歌えない。楽譜を何度も視線でなぞっても わからないものはわからない。
幾許かの沈黙の後、ヒバリの冷ややかな視線を受けて山本は困ったように笑って みせた。ヒバリの溜め息が宙を舞う。
ヒバリは自分の携帯電話を操作して並森中校歌を流した。
あぁこんな曲だと山本は思う。朝礼や行事の度に聞くものだが、まだ入って数ヵ 月。そこまで慣れ親しんでいない。といっても1年生の大半はもうしっかり歌え るようになっているのだが。
ヒバリが歌ってくれりゃあいいのに。
そう思いながら口には出さなかった。今は下手なこと言える空気じゃない。だが 。
(ヒバリの歌う校歌が聞きてぇな)
やはりそう思ってしまって流れる校歌にもヒバリの言葉にイマイチ集中出来ない 。
楽譜ではなくヒバリをただぼんやり見つめていたらその視線に気付いたヒバリに 殴られた。
こうして山本はヒバリの指導の甲斐もあり校歌を覚えたのだ。



「懐かしいのな〜」
「其処で何してるの」
小鳥のさえずる校歌に思いだし笑いをしながら耳を傾けていたのに凛とした声に 歌が止まった。
鳥は羽ばたき、その声の主の元へ行った。山本はそれを目で追い、ようやく此所 に来た目的の人の姿を確認した。
勝手に応接室にいたことを静かに怒っている。一見何の感情も表していないよう な表情でも山本は分かった。だが暴れるようなことはないだろうと即座に判断し ておおらかに対応する。
「おー、失礼してるぜ。そいつに校歌教えたのヒバリ?」
「勝手に覚えたんだよ」
山本の読み通り、ヒバリは特別アクションを起こすこと無く山本の側にあった椅 子に腰掛けた。
「俺の時みたく携帯?」
「違う。あの時はどっか行ってたし、壊れてたよ」
「じゃあヒバリが歌ったのか?」
「…悪い?」
じろりと睨まれて、山本は首を竦めてみせた。
「俺ん時は歌ってくれなかったくせにな〜」
「そうだったかな」
「そうだった」
「…そう」
また窓に戻った鳥が校歌を歌い始める。
1番、2番。3番が始まったところで山本も歌い始めた。
ヒバリは机の書類を見ている。
「君と僕とで並森の、当たり前たる並でいい………共に歩もう並森中」
歌い終わって、山本はヒバリの様子を窺う。
ヒバリは溜め息をついてパタンと書類を閉じた。すっと真っ直ぐな視線を山本に 向ける。視線が絡み合ったのは一瞬で、ヒバリは視線を逸らすと同時に口を開い た。
「もうこれの前で歌わないでくれる?外れた音程を覚えて欲しくないんだけど」
「あれ?外れてた?」
おかしいな、と笑う山本にヒバリの視線が刺さる。
「ヒバリに一緒に歌ってもらいてぇな〜。そしたらちゃんと歌える気ィすんだけ ど」
「………」
ちらりとヒバリを見れば、ヒバリは少し考えるようにして黙り込んだ。
キィと椅子が音を立てて回る。ヒバリが鳥に指を差し出せば鳥はその指に移った 。
「?」
山本がその様子を見守っているとヒバリは席を立って山本の頭に鳥が乗ったまま の手を伸ばした。次の瞬間山本はさくっと何かが乗ったのを感じた。
「なんだぁ…?」
反射的に頭の上のものを見ようとして、ヒバリの声に意識を引き戻される。
「そいつに習えばいい」
「こいつ…?」
ヒバリの指先から鳥が消えていた。山本はそっと手を伸ばし、指先にふわふわと した羽毛を感じ取った。
「鳥に教わるのかよ〜」
そりゃないぜと言えば鳥以下の癖にと返される。
それを言われてしまったらどうしようもなく、山本は苦笑しながらもう一度鳥に 触れた。くちばしでつつかれた。
なにとなしに鳥と戯れていたらヒバリがぽつりと言った。
「校歌、ちゃんと覚えられたら一緒に歌ってあげてもいいよ」
「………」
それを言われたら頑張るしかないではないか。
「よっしゃ。いっちょ頑張るか」
山本は笑うともう一度鳥に手を伸ばした。
「よろしくな〜。…えーっと、こいつなんつーの?」
「…名前はまだ無い」
「そっか。名前ねーのか」
いじりすぎたのか、鳥は山本の頭からヒバリの頭に移った。二人してそれを目で 追う。
ちゃんと正面から鳥を見て、山本は笑いかけた。
「よろしくな。先生」



俺がヒバリと校歌歌えるのは、おまえにかかってるんだぜ。