蝉の声がまだなりを潜めない夕食後、ヒバリがテレビのチャンネルを独占していたために野球雑誌を読んでいた山本は、ヒバリがトイレに席をたった間に、テレビのチャンネルをニュースから心霊特集に変えた。
ちょうどそのときアナウンサーが心霊スポットを探索していた。
水の流れる音がして、トイレのドアの開閉の音がした。
「ちょっと」
憮然としたヒバリの声に、山本は振り返らずテレビを見たまま返事をした。
「んー?」
「なに勝手に回してるの。僕ニュース見てたんだけど」
ヒバリはじっと山本の後頭部を見つめているが、山本はちくちくとしたその視線を気にしなかった。
「今いなくなったじゃん。CMでもなかったのに」
「別に僕の勝手だろ。勝手に回さないでよ」
「おっと」
ヒバリの手がリモコンに届くよりも先に、山本はリモコンをヒバリの手の届かない位置に動かした。
ヒバリがむっと眉を寄せ唇を尖らせた。あぁ不満そうだなぁと山本は思ったが、そんな顔が見たくてこんなことをしている節もあるのであえて平然と構えた。ただ内心ドキドキしていた。ヒバリ相手だと焦らしたりからかうのも命懸けだ。
「………なんのつもりかな」
不機嫌さを隠そうともしないヒバリの声にも、山本は普段と調子を変えない。
「いいじゃん。ニュースなんてまた後でやるって。これ見せてよ」
「嫌だよ。早くそれ貸して」
直も手を伸ばしてくるヒバリから、山本も懸命に手を伸ばしてリモコンを守る。
ヒバリが本気でリモコンを取りかえしにかかったらとっくに山本は敵わない。だからこれはまだほんの戯れの部類なのだが、ヒバリがそろそろ本気でリモコンを奪取しようと思い始めているのを山本は感じていたが余裕のふりをする。
「やだね。俺はこれ見てーんだもん」
「僕は別に見たくない」
「ヒバリ普段この時間ニュースなんか見てねーじゃん。なんで今日に限って…あ」
ふと思うことあって山本が声をあげればヒバリがリモコンから山本に視線を移した。
「なに」
「ヒバリ、もしかして怖いの?」
次の瞬間思いきり殴られた。
「っつ〜〜〜…」
「馬鹿なこと言わないでくれるかな」
衝撃にうずくまっている間にリモコンを奪いとられた。ヒバリはチャンネルを元のニュースに戻したが、次の番組に変わってしまっていたのでテレビの電源を切ってベッドに寝そべった。リモコンもベッドに持っていく。
「ちょっ…テレビ消すんなら見せてくれよ〜」
「もう今日テレビつけ過ぎだよ。少しは休ませなくちゃね」
「やっぱヒバリ怖いんじゃねーの?」
ヒバリを見てそう言えば鋭い視線とかち合った。ヒバリはすぐにふいと視線を開いていた小説に戻した。
「僕幽霊とか信じてないし。くだらないよ」
「信じてねーならいいじゃん。見せてよ」
「くだらないから嫌って言ってるんだけど」
「ケーチ」
「ケチでいいよ」
元からテレビをつけることは可能だが、そんなことをしてもリモコンを持っているヒバリにすぐに消されてしまう。
山本はもう一度ケチと呟いてから頬をテーブルに押しつけた。ヒバリはもう山本の相手をしなかった。
しばらく室内は時計の音と冷蔵庫の音だけになった。
山本は首を立てて顎をテーブルに乗せたままヒバリを見て問い掛けた。
「ヒバリ幽霊怖い?」
「だから僕幽霊とか信じてないって言ってるんだけど」
「怖いから?」
「また殴られたいのかな」
ちらりと横目で見て微笑んでくるヒバリに山本は小さく手を上げた。
「暴力反対〜」
「うるさいよ」
小説を読みながらヒバリは片手間で山本の相手をしているのだが、本を読んでいる割にちゃんと返事をしてくれるので山本は気にせず話しかける。
「あ、突然物が飛び出して来たりするのにびっくりしちゃうから嫌とか」
ヒバリは突然飛び出してきた人間を俊敏に返り討ちにするくせに本気でびっくりすると一瞬動きが止まる。テレビだと気配が読めないからいつ何が起こるかわからずその『本気でびっくり』しちゃうから嫌なのかなと山本は考えた。
「別にそんなんじゃないよ。…君も大概しつこいね。そんなに見たいなら見ればいいよ」
ヒバリはリモコンを山本に投げ付けて背を向けてしまった。山本はリモコンを拾い上げ頬杖をついてその背を見た。
「ヒバリも一緒に見ようぜ」
「見ないよ。興味ない」
「本、そんな見方してると目ぇ悪くなるぜ」
「別に君には関係ないでしょ」
「まぁヒバリが眼鏡ってのも見てー気はするけどな」
「どっかいってよ」
「ヒバリ背中見えてる」
「………」
もぞもぞとめくれあがっていた服を直すヒバリを見ながら、山本はテレビをつけた。
番組はちょうどCM中で、軽快な音楽と明るい映像が流れた。
ヒバリは起き上がりすたすたと山本の横を通っていく。それを山本は目で追いながらまた背中に向かって声を掛けた。
「どこ行くんだ〜?」
「風呂沸かすだけだよ」
「まだ早くねぇ?」
「早くないよ」
やることを終えるとヒバリはまたベッドに山本に背を向け横になった。
山本はテレビではなくヒバリをじっと見つめていた。番組は3時間の特集であと2時間ちょっと残っている。
「ヒバリ」
「………」
「寝てんの?」
「起きてるよ」
「そか」
「テレビに集中したら」
「ん」
その後部屋はテレビの声、音楽、悲鳴だけが響いた。山本はやはりちらちらヒバリを見てテレビに集中していない。ヒバリは山本に背を向けたまま身動ぎもしない。
寝てるのかな、と山本は思ったが声を掛けたらきっとまた返事が来る気がしてやめておいた。
三十分もした頃風呂のタイマーが鳴った。ピーピー鳴り響くタイマーをとめるのは山本の役目同然にになっていたので山本は反射的に止めに行こうとしたが、山本が動くよりも先に今までぴくりとも動かなかったヒバリが一言も言わず動いていた。
そんなヒバリを山本は目で追った。ヒバリは黙り込んだままタイマーを止めると戻って来てタンスから寝間着などを出して風呂に向かった。
「入んの?」
「入るよ。だって君テレビ見てるんだからまだ入らないでしょ」
「んー」
ヒバリが扉の向こうに消えてしまうのを見届けてから山本はテレビを見た。
集中して見てなかったので今何をしているのかちっともわからない。
山本だって幽霊なんて興味はない。ただ暇だったから見てみようと思っただけだし、ヒバリが思いがけない反応を返したから見たい見たいとごねてみただけでヒバリがいないのならつけていてもあまり意味がない。
だから山本はテレビを消した。机につっぷして目を閉じていたら、いつの間にか眠っていたらしい。風呂場から届いたヒバリの声で目が覚めた。
勢いよく体を起こして、寝ぼけていて夢の中で呼ばれたのかと思ったらもう一度呼ばれた。寝ぼけながらもテレビをつけたら途端に女の悲鳴で耳に痛い。山本は立ち上がって風呂のすりガラスの前まで行った。鏡に映った自分の顔は頬にべったり寝てた後がついていた。
「何ー?」
「今、何時?」
「今?」
風呂の中に時計がない。洗面所にもない。山本はひょいと顔を出して時計を確認する。
「9時20分だけど」
「…まだ9時20分?」
「ん?んん。9時20分」
「………そう」
「? そう」
ヒバリがそれ以上何も言ってこなかったので山本はテレビの前に戻った。
時間を尋ねられて、山本はふと時間を意識した。
ヒバリが風呂に入った時間は何時だっけ。思い出せないが普段のヒバリに比べればだいぶ長く入っている気がする。
「………」
山本はもう一度すりガラスの前までいって声を掛けた。
「ヒバリー?」
「何」
「あ、起きてた」
「起きてるよ。さっきからなんなの君」
「だって珍しく長風呂だから寝てんのかと思った」
「君テレビは?もうCMも終わるんじゃない」
「あー…」
別にCMだから来たわけではないのでヒバリの言葉は的はずれなのだが、言われて山本はテレビを見た。CMが終わるどころか、むしろ今からCMだった。
「まだ平気みてぇ」
「…そう」
「ヒバリー」
「何」
「一緒に入っていい?」
「馬鹿じゃないの」
こんな狭い風呂に2人で入れるわけがないというのはもっともだということくらい、ヒバリより体の大きい山本は嫌というほどわかっているのだが、構わず戸を開けた。
次の瞬間絞られてない濡れたタオルを顔面に投げ付けられ、山本の顔から滴る水滴でTシャツは色を変えた。お湯をぶっかけてこなかったのは周りが濡れると困るというヒバリの配慮だろう。
「僕はもう出るから」
邪魔と言われて山本は入れ違いで熱い湯気の霧に満ちた風呂場に入った。
なんとなく風呂場に突っ立ったままヒバリを見ていた。
風呂を熱めにしていたのか、ヒバリの白い肌が淡く朱色に染まっている。水の滴る黒髪が白い安蛍光灯の光を反射して艶めいていた。
ヒバリは手早くパジャマを着込むとまだ濡れた髪をいい加減に拭いてタオルを肩にかけて部屋にいってしまった。
ぽつんと取り残された山本は取りあえずTシャツを脱ぐことにした。



素早く山本が風呂から上がった時、ヒバリはまたベッドに横になっていた。ただ今度は仰向けになっていた。目は閉じられているが、寝ているのかはわからなかった。側の机には空のグラス。紅くなった頬はまだ元に戻っていない。
「………」
山本は団扇でヒバリを扇いでやった。するとうっすらとヒバリの瞼が開いた。黒い瞳に自分が映ったのを見て山本はヒバリに声を掛ける。
「長風呂したからのぼせちゃった?」
「………別に」
そう言いながらもだるそうにまた目を閉じるヒバリにこんなになるまで風呂に入ってるほどテレビ見たくなかったのかと山本は思っていた。
やっぱり本当は幽霊が怖いんじゃないかと勘ぐってみるが尋ねたところでどうせ「怖くない信じてないくだらない」と返されるに決まっている。
今度お化け屋敷にでも連れていってみようか。
山本は団扇でヒバリを扇ぎながらそんなことを考えていた。





蝉の声も途切れとぎれになった頃、オレンジの豆電球の明かりだけがともる室内で山本は隣りで目を閉じているヒバリに声を掛けた。寝てないのはわかっている。
「ヒバリー」
「………何」
「今日やってた怖い話してやろうか」
声に面白がってる響きが含まれてしまったからか、ヒバリはうっとおしそうに眉を寄せた。
「いいよ別に。僕もう眠いから」
「だってヒバリ眠れねーみたいだから」
「そんなことない。もううるさいから黙って」
背を向けてしまったヒバリに構わず山本は話し始めた。
「これは10年前の夏のこ………ぃだっ!」
容赦なく肘で打たれた山本は痛みに言葉を中断した。シングルに二人と狭すぎるベッドのために体を折り曲げて痛みに耐えることもできない。
「…蚊でもいたかな」
「うそぉ」
血を吸われた方がマシだった…と山本はヒバリの背中に額を当てた。
「邪魔。暑苦しい」
「いいじゃん。気にすんなって」
「気になるよ。鬱陶しい」
そうは言いながらもヒバリはもう実力行使にでてこなかったので山本は離れずにいた。やがてすよすよと聞こえてきた寝息。
「うーん…」
結局ヒバリは幽霊が怖いのだろうか。真相は闇の中。
山本は一度ヒバリの髪を梳いてから自分も寝ようと瞳を閉じた。