リーン…。網戸の向こうから風鈴の音が室内に入り込みます。
蝉が鳴き叫ぶ真夏の太陽が一番高く上りきろうとする時、山本は扇風機の前で素麺が湯で上がるのを待っていました。
隣りでは座布団を並べその上にゴザを引いてヒバリがすよすよとお休み中です。
窓際にあるベッドはカーテンを閉めていようと暑いので、夏場は昼間室内の日の当たらないところでヒバリは寝ているのです。
タオルケットをかけて寝ているヒバリを見下ろして、山本は、
(タオルケットかけてよく寝れんなぁ。こんな暑ぃのに)
と思いながら眺めていました。
素麺が湯で上がり、ザルに移したところでピンポーン、家のチャイムが鳴りました。
「?だーれだ?」
山本はそう呟きお湯を切りながら戸口を見ました。



「プール?」
「そ。プール。一緒にいかね?」
夕方涼しくなり始めた頃、ヒバリは目を覚ましました。
プールってなんだろう。
まだ寝ぼけなまこで寝汚く寝そべっているヒバリがそう思っていると、付けっ放しのテレビから「プール」という単語が聞こえてきて、ヒバリはそちらに目をやりました。
ブラウン管の中、ニュースの一部。プールで水飛沫をあげ楽しそうに笑う子供や女性たちの姿があります。
「プールって、これ?」
「そう。これ。なー一緒に行こうぜ」
「死んでくれる?」
こんな太陽がサンサンと降り注ぐところになど、太陽光は天敵という吸血鬼のヒバリが行けるはずありません。
ヒバリはくるりと寝返りをうち山本に背を向けました。
山本はヒバリをまたぐように手を突いてヒバリの顔を覗き込みます。
「プールっつっても、屋内のな」
「屋内?」
「そ。ひろーい室内にでっけープールがどーんとあんの」
「………」
そこならヒバリも平気だろ?と笑う山本の鼻を、ヒバリはなんとなくつまんでみたのでした。


屋内プールはヒバリが寝てる間に来た新聞屋さんがタダ券をくれたからです。
水着を持っていなかったヒバリの水着を買って、二人は屋内プールに向かったのでした。


「………」
ヒバリは着いたそばからうんざりといった顔で目の前にわらわらといる人達を眺めていました。
「………帰る」
「ダメー。まだ来たばっかじゃねぇか」
入ってきたばかりの入口に向かおうとするヒバリの腕を掴んで山本は引き止めます。
「こんなに人がいるところなんて嫌だ。僕は帰る」
「楽しんじゃえば人なんて気になんねーって」
「嫌だ。帰る」
「ヒバリー…」
「帰る」
「………」
言い張って聞かないヒバリとの視線での攻防はしばらく続いたのでした。



結局、帰りに西瓜を買って、四分の三ヒバリのものにするという条件で中に入りました。ヒバリは血が大好物ですが、西瓜の果汁も大好きなのです。
果汁が好きだったり蚊取り線香に弱かったり、吸血鬼っていうかむしろ、蚊?と山本は思うのですが、一度ぽろりとヒバリの前でそう言ったらかみ殺されそうになりました。
「蚊扱い」は吸血鬼としてのプライドが許さないそうです。



更衣室でお着替えしました。
「………」
水着姿の山本に対し、ヒバリは上に山本のTシャツを着ています。ヒバリは肌の露出を極端に嫌うのです。
山本はヒバリを少し遠い目をして見つめていました。
サイズの合っていないTシャツに、そのTシャツの下からすらりと伸びる白い足。
(ちょっとやばいんじゃねコレ…)
特別女らしい顔つきではありませんが、少し小柄で華奢な体型のヒバリの体のラインはTシャツで隠され胸の小さい、少し中性的かつキツめの顔をした美人に見えないこともない。と、山本は思います。
「…? 何見てるの」
「や、別に。さ、プール行こうぜ」
「?」
山本の視線に気付いたヒバリは山本を訝しげに見ましたが、山本はちゃっちゃとヒバリをプールの方に誘導しました。



プールの方もすごい人です。
おまけに屋内プール特有の蒸し暑い湿気た空気にヒバリは顔をしかめました。
やっぱり帰ると言い出しかねない空気を察知した山本は「荷物置けそうなとこ探さねーとな」などとヒバリの手を引いて半ば強引に中へ引きずり込んだのでした。
なんとか二人休めるスペースを見つけ出してシートを敷き荷物を置きます。
山本が用意している間、ヒバリは塩素の匂いを含む湿気にも慣れ辺りを見回していました。
人。人。人。
何処を見ても人がいます。こんな大勢の人に囲まれるのは初めてです。
そしてヒバリは水が寄せては返る波のプールを発見しました。
「………」
ヒバリは山本に声を掛けることなくプールの方に向かいます。
すぐ爪先まで水が届く位置まできました。ヒバリはじっと押し寄せてくる水を見つめます。
水が引いた時、ヒバリは一歩足を進めました。また波が来ます。勢いよく近付いてくる水をヒバリは少しドキドキしながら見守ります。水がヒバリの足に届き通り過ぎていきます。
(…冷たい)
一定の間隔で水は行ったりきたりを繰り返しています。
(これがプール…)
ヒバリはもう二三歩足を進めて、何度も行き来する水を突っ立ったままじっと見つめていたのでした。



「あれ?ヒバリ?」
山本はちょっと目を離したすきにヒバリがいなくなっていたことに気付きました。
「ヒバリ?」
辺りを見回してヒバリを探します。この人込みの中、探すのは難しいかと思われましたが目的の人は案外すぐに見つかりました。
肌と水着の色に埋め尽くされているこの空間で、黒いだぼだぼのTシャツを着ている人はかなり目立ちました。
(…ヒバリが迷子んなったときは便利かもなアレ…)
山本は足首まで水につけて、水と戯れるでもなくただ立っているだけのヒバリの後ろ姿を見てそんなことを思いました。
(…ん?)
ふと山本は気付きます。プールの中ではなくヒバリに近付いていく不穏な影に。



「なーお嬢ちゃん一人?迷子にでもなったの?」
ヒバリは突然横から聞こえてきた声にそちらを向きました。でもまさか自分にかけられた言葉だとは思っていません。ただ雑踏の中からやけにはっきり聞こえてきたから何かと思ってそちらを向いただけです。
小麦色の肌がすぐ間近に見えて、ヒバリは視線をあげました。見知らぬ男と目が合いました。
「誰ときたの?友達?一人でいたってつまんねーだろ?俺らと一緒に遊ばねぇ?」
ヒバリと目が合った男の隣りにいた男が言います。
矢継ぎ早に言葉を並べられてもヒバリはまだ自分への言葉だとは思っていません。まぁ「こいつは誰に言ってるんだろう」くらいには思ってきょろきょろとこの男達の言葉の対象を探してみましたがそれらしいのはいません。
「?」
ヒバリは訝しげな目を男達に向けました。対して男達はヘラヘラと笑っています。
ポンっと肩に馴々しく置かれた手に、ヒバリはようやく自分に言っていたのだと気付きます。
Tシャツ越しでも触れてくる手が不快でヒバリは男達を見据えて手を払い落とそうとしました。
「な?いいっしょ?一人が嫌なら友達も一緒にさ」
「ワリィけどこれ俺の連れだから」
後ろから抱き締められるように回された腕に肩を引かれて、ヒバリは唐突のことにバランスを崩しよろめいて真後ろにいた人の胸にぶつかりました。
「………」
ヒバリは声でいきなり腕を回してきたのが誰かなんてわかりました。が、突然の山本の登場に少なからず驚いて山本を見上げました。が、山本と目は合いませんでした。
山本は作り笑顔を浮かべてヒバリに声を掛けてきた男達と対峙しています。
「まだなんか?」
ことさらにっこり山本が笑えば男達は「男連れかよ」とありきたりなセリフを舌打ち混じりで吐き出して去って行きました。
ヒバリはその間じっと山本を斜め下から見上げていました。
男達が去って山本は溜め息をついてヒバリの頭に頬をよせました。
「はぁー…。なにナンパなんかされちゃってんだよ…ったく」
「ナンパって何?」
「ん?あー…知らない人に声かけられること」
撫でこ撫でこ頭を撫でてくる山本をヒバリは「暑苦しい」と引きはがします。山本も素直に引きはがされます。
「ヒバリ。知らない人にはついてっちゃダメだかんな。飴あげるって言われても絶対ダメだぞ。西瓜でもダメだ」
「わかってるよ」
「ミルキーもだぞ」
「しつこい」
唇を尖らせるヒバリを山本は見つめながらもう一度溜め息をつきました。
(…マジでナンパされるとはなー…)
もう絶対目が離せない。
山本はそう思ったのでした。



「ま、いいや。ヒバリちょっと来て」
「?何処行くの?」
山本はプールとは反対側、荷物の方へ戻って行きます
「浮輪。空気入れなくちゃな」



ぷしゅーっとみるみる膨らんでいった浮輪をヒバリは目を輝かせて見ていました。
しおしおだった浮輪がパンパンになります。山本は栓をしめると「ほいよ」とヒバリに被せました。
浮輪をお腹回りの位置で両手で持つヒバリを引き連れてまた荷物のところに戻っていきます。
「ヒバリTシャツ脱げよー」
「………」
「んな嫌そうな顔されても。それ着てプール入れねーから。決まりだから」
「………」
無言の抗議をしつつもヒバリは浮輪を一度足下に落としてしぶしぶTシャツを脱ぎ、また浮輪を持ち直します。
(………これなら絶対ナンパなんてされねーよな。いや逆ナンされっかもしれねーな)
やっぱり目を離せない。山本はそんなことを思いながらヒバリを見つめます。スタスタとプールに歩いて行こうとするヒバリを浮輪についてる紐を掴むことで引き止めます。
ヒバリは邪魔そうに振り返ります。そんなヒバリに山本は言いました。
「準備運動しなきゃな」
プールに入る前は忘れずに。



ついにプールに入ります。
おっかなびっくり一歩一歩進ヒバリに合わせます。
段々と深くなっていく水深。水が胸辺りまできました。あと1メートルも歩けばきっと足の届かない深さになるでしょう。
「そういやヒバリ泳げんの?」
「…泳ぐ?」
初めてプールに体を緊張させてカッチコチになっているヒバリに山本は問い掛けました。
ゆらゆらと揺れる水面、変わる水の高さにドキドキのヒバリは軋んだ動作で引きつった顔を山本の方を向けました。
(…泳げねーなコリャ)
吸血鬼が泳げる必要などありませんから。まぁ泳げるにこしたことはありませんが、水に浸かるということ自体ヒバリは初めてのようです。
(風呂は好きなくせになー)
浮輪ではなく山本にすがる手に悪い気はしません。しませんが、細身のくせに馬鹿力。必死のヒバリの握力はちょっと痛いです。
「ヒバリ、浮輪持て浮輪」
「………」
山本から手を離さないヒバリに、山本はヒバリから浮輪を取ると「見ててな」と浮輪を使ってふやふやとたゆたって見せます。
「ほらこうやって力抜いてこれに掴まってりゃ足付かなくても平気だから、な、やってみ」
「………」
ヒバリは訝しげに山本を見つめながら、それでも片手は山本から離さないのですが、体を浮輪に預け足を地から離します。
浮きました。ヒバリは初めて浮力を感じて、傍目から見たら無表情ですが山本にはわかります。とても目が輝いています。新しい玩具を手にいれた子供のような顔をしています。山本はそんなヒバリが可愛くて可愛くて思わず頬の筋肉を緩ませます。
でもヒバリは傍目から見たら無表情ですが。山本の目にはなにかフィルターがあるのか、心の瞳が澄み切っているのかは定かではありません。



浮輪を使って浮くのに慣れてきたヒバリは山本から手を離して一人波に揺られています。山本はそんなヒバリの浮輪の紐を握って深い方深い方へ進んでいきます。
もう山本の足も届きません。立ち泳ぎです。
今の山本はまさに白鳥。すました顔をしていますが、水面下では懸命に足を動かしています。
足は付かないはずなのに、水面から顔を出している山本にヒバリは首を傾げます。
「足、ついてるの?」
「ついてないよ」
「じゃあなんで平気でいられるの?」
「立ち泳ぎしてっから」
「立ち泳ぎ?」
「そ。でもいい加減疲れてきたなー。ちょっと休ませて」
「ちょっ…」
山本はすいっとヒバリの背後に回って、浮輪に体を預けました。新たに掛かった山本の重みで浮輪が沈みかけます。
その感覚に、浮輪が命綱なヒバリはこれ以上沈まないように、思わず肘を繰り出していました。
勢いよく山本のこめかみにヒットです。容赦のない一撃を食らった山本はブクブクと沈んでいきました。ヒバリはそんな様をじっと見つめています。
そのうちちゃぷりと水面から顔を出した山本は肘うちを食らったこめかみを押さえしくしくと泣き真似をしました。
「ヒバリ酷い…」
「馬鹿な真似するからだよ」
「んな心配しなくても、俺がちょっと体重かけたくらいで沈まねーよ」
「嘘。浮輪傾いた」
「平気だって。絶対平気」
「………」
「…俺そんな信用ねぇ?」
訝しげに睨むような視線を山本に向けるヒバリに山本は軽く心に10のダメージです。
「絶対平気。沈まない。沈んでも助けるから。な?」
「やっぱり沈むかもしれないんじゃないか」
「いや沈まねーって」
「………」
波に揺られながらそれでもまだ信用してないオーラを放つヒバリの浮輪に山本はゆっくりと手を伸ばします。
そっと体重をかけていけば浮輪はやはり少し沈みましたが、二人分の体重が掛かってもまだ浮いています。
「な?平気っつったろ」
「………」
にっと笑いかけて、ヒバリの背後に回ります。山本はヒバリが前傾姿勢なので水面から離れがちになっていた方に体重をかけました。
少し大きめな浮輪とはいえ至近距離です。
男二人がひとつの浮輪でふわふわゆらゆら、ベタベタイチャイチャ。
周囲の女の子が頬を赤らめながらキャアキャア見ていたのに二人は気付かなかったのでした。



今は真っ昼間。普段ならヒバリはお休み中の時間です。
浮輪に掴まりながらウトウトし出したヒバリに、山本は時間切れかと帰ることにしました。
欠伸をしているヒバリをそばに置いて山本はテキパキ荷物を片付けます。
閉じかける目をこすっているヒバリの手を引いて山本は更衣室まで連れて来ます。
ダラダラと、それでもなんとか着替えたヒバリを借り物のワゴン車まで連れてって、そろそろお休み間際のヒバリをシート全部倒した後部座席に乗せました。ヒバリはゴロンと横になると、窓から入る光を遮るように傘を床に置いて影を作ります。
山本も車に乗り込み、これでさよなら大型屋内プール。



「ヒバリー、まだ起きてっかー?」
「………なに?」
あまり返事を期待せず声を掛けたので、返事が返ってきたことに少し驚きながら山本は言葉を続けます。
「楽しかったか?プール」
「…そこそこね」
「今度は近くの屋内プール行くか。そこで泳ぎの練習でもすっか」
「…どうでもいいよ」
もうヒバリの意識も限界のようです。ヒバリにとっては半徹したようなもの。
よく寝るヒバリには素晴らしい快挙です。
「ヒバリー?」
「………」
返事が返ってこなくなったことに山本は苦笑して、次は何処連れてこうかと考えます。
今までヒバリは行楽地に連れて行ったことはありませんでした。初めての体験です。
ヒバリはそれなりに長生きしているらしいですが、人間社会においては何も知らないお子ちゃまです。
もっともっといろんなものを見せてやりたい。いろんなことをさせてやりたい。
山本の本音としては、そんな経験をしたときのヒバリの反応が見たい、というのもあるのですが。
山はきっとヒバリにとって目新しくはないでしょう。何しろ二人は山の中で出会ったのですから。
(昼の海は絶対厳しいしな…。行くなら夜の海かな)
屋内プールの人工の波、塩素の香りではなく本物の海の満ち引き、潮の香りを教えてやりたい。
赤信号で止まった時、山本は後部座席のヒバリを見ました。
傘が邪魔で顔が見えません。
山本は小さく笑んで深く息をつくと、また青信号に備えて前を向きました。
ヒバリと海に行こう。
山本はそう堅く心に決め、帰ってヒバリが起きたら提案してみようと思いました。
「いよっしゃ」
山本が期待に胸を膨らませていると、信号が青に変わりました。
二人の車はゆっくりと進み出したのでした。