狭い部屋の中が、重苦しい空気に満ちていました。


原因は十五日前。ヒバリが昼寝をカーテンを開け放った部屋の日陰で昼寝をしていたときのことです。
そろそろ起きようかと寝ぼけながらごろりと寝返りをうったヒバリは棚にぶつかりました。あいたと思ったヒバリをさらなる衝撃が襲います。棚の上にあった本がヒバリの顔に落ちてきたのです。
「っーーーーー…」
無防備だったので衝撃もひとしおです。こんな無様なところ、誰もいなくて良かったと思いつつ落ちて来た雑誌に目を向けます。
ずいぶん古臭い野球雑誌でした。日付は10年以上前のものです。
「?」
ヒバリは首を傾げます。何故こんな古い物が。
「………」
しばし雑誌をじっと見つめて。古いし鼻に当たって痛かったし明日は新聞雑誌のゴミの日だと山本が言っていたし、よし捨ててしまおうとヒバリはその雑誌を新聞を捨てる紙袋に突っ込みました。ついでに新聞も入れます。
これで明日のゴミはばっちりだ。ヒバリは珍しくお手伝いをした気分になっていたのでした。


翌日の朝。山本はゴミを捨てました。ヒバリは何も言いませんでした。
さらに翌日。その日は休日でした。山本は棚を覗いて首を傾げていました。
「あっれー…?っかしいな…。なぁヒバリー」
朝一度起きてまた寝ようとしているヒバリに山本は声を掛けます。
「何?」
「ここにあった野球の雑誌知らねー?」
と尋ねながら「知るわけねーよなぁ」と自己完結させて山本はまた棚の物をどかしては首を傾げていました。
棚にあった野球の雑誌。知ったこっちゃないとヒバリは寝返りをうちながら、はたとおととい顔面に落ちて来たあの雑誌を思い出しました。
「それって…」
「ん?」
「かなり古いやつ?」
「そうそう。それ。何ヒバリ知ってんの?」
ヒバリの言葉に表情を明るくした山本にヒバリははっきりと告げました。
「捨てたよ」
「は?」
「だから、捨てたよ」
「………」
山本は笑顔のまま凍り付いています。

「え、嘘!マジかよ!」
「マジだよ。もううるさいな。僕もう寝るから静かにしてよ」
「嘘だろ?なぁ!冗談だろ?!」
「嘘じゃないよ。本当だよ。君が昨日捨てた新聞のゴミのなかに入れたから」
「な…」
昨日の出したゴミの中じゃ今からゴミ集積所に行っても無駄です。山本は奈落のどん底に突き落とされたような心地でした。
うちひしがれている山本をヒバリはベッドに横になった状態で肘を突いて上体を起こしてうっとおしそうに見つめます。
「なんなの?あんなのただの古い雑誌じゃないか」
「俺にとっては大事なものだったの。俺が初めて小遣いで買った雑誌だったの。宝物だったの」
「知らないよそんなの。ただの雑誌に変わりはないでしょ」
「だから俺には、あーもう…」
山本は何かを言いかけて、机に突っ伏しました。ヒバリは山本をじっと見つめます。
山本のいう「宝物の雑誌」という価値観がヒバリには理解出来ません。
雑誌は雑誌。どんな雑誌でも雑誌。古いのから捨てる。山本だって古いのは捨ててました。何故あの雑誌だけ特別でとっておいたのか、意味が分からないというのがヒバリの思いです。
ヒバリは小さく欠伸をして。眠くなったので布団に潜り込みました。


夕方になってヒバリが目を覚ましました。そして気付きます。なんだか部屋の中の空気が重たいことに。
探すまでもなく(鬱)の根源はすぐ見つかりました。ヒバリに背を向けてテレビを見ている山本です。ヒバリはしばらく山本を見つめていました。
山本はヒバリが起きた事に気付いているのでしょうが、黙ったままです。
「………」
「………」
外からよい子のチャイムが聞こえてきました。部屋にはテレビの音。そして、その音にたまに混じる山本の溜め息。
ヒバリは少し唇を尖らせます。
「…ねぇ」
「ん?」
山本は振り向きます。口から魂が抜け出たような山本と不機嫌そうなヒバリが顔を合わせました。
「なんなの?鬱陶しいんだけど」
「んなこと言われたってさー…」
そういうそばから溜め息です。普段呼び込んでいる幸せが底をついてしまいそうな勢いです。
「まだ雑誌のこと気にしてるの?大概小さい男だね君」
山本の大事な雑誌を捨てた張本人がそんなことを言ってのけました。さすがの山本、傷心も手伝って何かがぷっつーんと切れました。
「ヒバリが捨てんのが悪ぃんだろ!んだよその言い方!」
声を荒げる山本にヒバリも負けずに言い返します。
「ホントのこと言ったまでだよ!大事大事って意味が分からない!どうせいつかは捨てるんだからいいじゃないか!」
二人の間に火花が散ります。睨み合い張り詰める空気。一触即発。取っ組み合いならヒバリの勝ちは見えてます。
体力馬鹿の山本相手に腕力では負けません。細身の身体で馬鹿力。
殴り合うなんて真似はしませんでしたが、その日は一日お互い口も聞かず目も合わさないで過ごしたのでした。


ヒバリの大好きな夜のお散歩はヒバリの機嫌を直してくれます。
上機嫌で月夜の散歩から帰ってきてベッドに潜り込もうとした時、ヒバリはあることに気付きました。山本が完全に窓際を向いて寝ています。
あくまで山本は怒ってることを主張したいようです。
(…いい度胸だよ…)
お散歩がなだめてくれた胸中がまたフツフツと煮えたぎります。
ふんっとヒバリも山本に背を向けて、掛け布団を山本から引きはがして自分の方にもってきたのでした。


朝。山本が起きたのに反応して、ヒバリも目を覚ましました。
じっと洗面所に消えていく山本の姿を目で追って、山本の姿が見えなくなってもそちらをずっと見つめていました。
山本が洗面所から出てくる気配がしたのでヒバリは目を閉じてまだ寝てるフリを始めます。
普段なら山本がヒバリを起こすために声を掛けてくるのに、今日は何も言ってきません。
「………」
ヒバリはなんだか違和感を感じてそっと薄く目を開いて山本を探します。山本は流しに向かって自分の朝食の準備をしていました。ヒバリに背を向けていたのでヒバリはぱっちり目を開けてその背中を見つめます。
そのうち山本が作り終えた自分の朝食を机に運ぼうとしたのでヒバリはまた目を閉じました。
山本は朝食を机に並べてやはりヒバリに背を向けてテレビを見ながらもふもふ朝食を食べています。
ヒバリはまた目を開けて山本の後頭部に視線を送りますが山本は振り返りはしません。
そのうち朝食を食べ終えた山本は食器を流しに運んで洗い物を始めました。ヒバリは山本を目で追いながらその様子を見つめます。
今日起きてから一度も目が合いません。それどころか顔も合わせていません。
「………」
なんとなく起きづらくてヒバリはずっと布団を被ったまま山本を見つめます。後頭部にチリチリとした視線を感じるほど視線に敏感ではない山本です。
ヒバリの視線の先で山本は輸血パックを冷凍庫から取り出すとレンジに突っ込み解凍し始めました。
ピーと解凍を告げる音を聞いて山本は輸血パックを取り出すと机の方に戻ってきました。ヒバリは目を閉じて寝ているフリです。
山本は輸血パックを机に置くと鞄を持ってテレビを消して、結局一度もヒバリを見ることなく声を掛けることもなく部屋を出て行きました。
山本がいなくなって、ヒバリは布団から出ました。
朝から山本の声を聞かないことなんて初めてかもしれません。今まで喧嘩したって毎朝山本はヒバリを起こして一緒にご飯(ヒバリは輸血パックですが)を食べました。
「………」
ヒバリは山本が机に置いた輸血パックを手に取りました。
いつもより熱いです。きっとヒバリが遅く起きてもあまり冷たくならないようにわざと熱めに温めたのでしょう。
熱くて持ちたくない温度の輸血パックをまた机に戻して、ヒバリは熱すぎる輸血パックを見つめたのでした。



満足に口も聞かない日々が続いて、ヒバリは山本が本気で怒っている事を日に日に感じていきました。
今回の一件、悪いのは勝手に雑誌を捨てたヒバリなのはヒバリ自身自覚しています。
本当に余程大事な雑誌だったのだと知れました。
わざとじゃない、と言ってみたところで捨ててしまったのは事実です。
「………」
悪い事をしたら「ごめんなさい」。山本がそう言ってました。
ごめんなさいという単語をヒバリは使った事がありませんでした。
謝ろう。そう決意して、ヒバリは目の前で背を向けている山本に声を掛けました。
「ねぇ」
「………あ?」
山本がゆっくり振り返ります。冷たい目と目が合って。ヒバリは言いかけた言葉を飲み込んでしまいました。
「………テレビの音、ウルサいんだけど」
「そ?」
山本はチャンネルで音量を下げていきます。
「これならいい?」
「…うん」
山本はまたテレビの方を向いてしまいました。
失敗。
なかなか素直に謝れないまま、一日、また一日が終わっていきました。


夜だというのにヒバリは外にも行かずベッドの隅で壁に背を預けながら膝に額を押しつけて自分を抱くようにしながら小さくなっています。
山本はそれを見ながらどうしたものかと考えていました。
気まずくなり始めた頃は会話という名の口論がありました。謝ろうとしないヒバリに、山本は自分からは必要最低限のことしか喋らないようにし、ヒバリが何か言おうとしたら返事では無く視線を向けるようにした結果、ヒバリも何も言わなくなってしまったので部屋には沈黙が落ちるようになりました。
(うぁー…気まずいなー…)
ヒバリが自分の非を認めているのは山本もわかっているのです。しょぼんと落ち込んでしまっていることも。
けれどちゃんと言葉で謝って欲しくて最初に意地を張ってしまったのは自分なので、今更「もういいよ」とは言いづらいのです。
山本はどうしたものかと思いながら無意識に小さく溜め息をつきました。


山本の溜め息に、ヒバリは内心ヒドくびくつきました。
まだ怒ってる。そう思ったのです。
どうしよう。謝らなくてはと思うのに謝れない。どうしよう。
ぐるぐる思いは巡ります。


お風呂が沸いたのを知らせるタイマーが鳴りました。その音に山本は洗濯物を畳む手を止めヒバリを見ました。
「ヒバリ、風呂先入る?」
「………」
山本の言葉に、ヒバリは黙り込んだまま頷いて、俯いたまま風呂場に行きました。
その様子を山本は目で追いましたが、ヒバリは山本から顔を背けたまま風呂場へと消えていきました。
ヒバリが戸の向こうに消える刹那、ヒバリの頬をこする仕草が山本の目に飛び込みました。
ヒバリを見つめていた山本は思わず固まります。
え、ちょっ…何だ今の動作…?もしかして泣…。
自分の発想に自分でびっくりです。
「………」
いやいやまさか。まさかあのヒバリが泣くなんてそんな。
山本は頭を振って自分の考えを振り払います。
「………」
失敗しました。考えは消えません。頭を振ったまま固まれば、ふと洗濯し畳み終わったバスタオルが目に入りました。
風呂場に持っていってやらなくては。
山本はそう思い、バスタオルを持って風呂場のドアを開けました。そしてびっくり。
ヒバリはまだ風呂に入っておらず其処に立っていました。突然開いたドアに驚いたのでしょう。驚愕を隠さず振り返って、同じく驚いている山本を見ました。
目と目が合って。
山本はヒバリの目が赤く、濡れている事に声もありませんでした。呆気にとられていた次の瞬間、顔面に右ストレートをくらって山本は吹っ飛ばされていました。ドアが乱暴に閉められます。
「いってー…」
山本の状況把握能力が追いつかない事が次々に起こり過ぎです。山本は殴られて痛む頬を無意識に押さえます。
何がなんだかさっぱりです。
さっぱりついでに今目に飛び込んで来たものを思い出します。
(………ヒバリの半裸)
上だけ脱いでいたので、髪と服の黒と白い肌のコントラストが強烈に印象に残っています。
(あれやっべーな。マッパより綺麗だったかも…)
ではなくて。
ウサギさんまでいかなくとも、真っ赤になって少し腫れてた目を思い出します。
見ちゃった。泣いてた。見ちゃった。見ちゃった…。
なんだか見てはいけないものを見てしまった気分です。おまけに。
(泣いてた…。え、俺のせい?え?)
あのヒバリが泣くなんてそんな馬鹿な。でも見てしまいました。現実です。
山本の前でた閉められた戸がためらいがちに少し開きました。
涙こそ流れていないものの、目の回りまで赤くなっているヒバリが隙間から現れます。上の服も着ています。山本ちょっとガッカリ。
「…なんなの」
泣いていたからか、ちょっと鼻声がかった声です。
「や、バスタオルねーだろ」
「………」
「………」
ちょっとの沈黙が重たいです。時折前触れもなくヒバリのしゃっくりが響きます。
山本は恐る恐る言葉にしました。
「ヒバリ泣い…」
「泣いてないよ」
山本の言葉はヒバリの声にかき消されて、また沈黙が落ちます。
「………」
「………」
お互いどうしたらいいのかよく分かりません。
山本は「ヒバリ泣かせちゃったよどうしよう」だし、ヒバリは「見られた山本に見られたどうしよう」です。
二人とも視線を相手に向けず、何処ということもなく一処を見つめます。
「………」
「………」
「………」
「………」
「…あの」
「ねぇ」
山本の方が一瞬早かったのですがヒバリのが大きかったので、山本は自分の言いかけた言葉をやめて「何?」と問い返しました。
この数日「何?」は何度か言いましたが、そのときの冷たいような素っ気なさはなく優しい響きを含んでいました。
山本はヒバリを見ましたがヒバリは目を合わせようとしません。視線をうろうろと彷徨わせて、自分から話しかけたくせにその先を言おうか言うまいか迷っています。
山本はじっとヒバリを見つめてヒバリの言葉を待ちます。
やがてヒバリは意を決したのか、ぐっと一度下唇をかみ締めてから口を開きました。
「……………ごめん………」
それは消え入りそうな程小さなものでしたが山本に確かに届きました。
あのヒバリが謝った。
山本が目を見開いているとパタリと戸が閉まりました。
その音に山本が我に返ります。立ち上がって閉ざされたドアに手を掛けました。
ドアを引いて脱衣所に飛び込もうとしたのにすぐ目の前にまたヒバリがいました。
ドアに寄り掛かっていたのでしょう。急に背もたれにしていたものを後ろに引かれて、ヒバリは体を支えきれず後ろに傾きます。
「……っ」
「おっ…と」
倒れこんできたヒバリを山本は身体で受け止めて支えました。がっちりと支えてやればヒバリが山本の顔を見上げます。
上目がちで、様子を伺っているように見えます。
山本は小さく微笑んでヒバリの頭にぽんっと手を乗せました。
「ヒバリも、わざと捨てたわけじゃねーもんなぁ…」
「………」
後ろから抱き締めてわしわしと髪をかき混ぜます。ヒバリも普段なら山本の手を払い落とすのでしょうが、今はおとなしくされるがままです。
「風呂、一緒にはいんね?」
「入らない」
でも一緒にお風呂は断られたのでした。
あ、そうですか。あまりにもきっぱり言われたので山本はしつこく言う気にもなりませんでした。
「…もう、怒ってないの?」
じっと見上げてくるヒバリを山本は見つめ返します。
「…怒ってるから一緒に風呂入ろうっつったら?」
「入らない」
「………そ」
かたくななヒバリを山本は頭に乗せていた手をぽんぽんと弾ませます。やはりヒバリは手を叩き落とす事はありませんでした。
山本は山本を見上げていたヒバリが前に回されている手に触れて、体重をかけられたのを感じます。
(…風呂はお預け、か…。ま、いっか)
あのヒバリが謝ることを覚えたというだけであの雑誌一冊分の価値がある気がします。
そしてやっとあの重たい空気から解放されるのかと思うと、良かった、の一言に限ります。山本は一息ついて、おとなしく腕の中にいるヒバリの頭を撫でたのでした。