あるボロアパートに住む人間と吸血鬼が、喧嘩しました。 怒鳴りあったり殴り合ったりするような熱戦ではなく、ただペンギンが周りを歩けそうなほどの冷たい戦いがもう二週間ほど繰り広げられています。 きっかけはもう既に思い出せないくらい些細なものだったのです。けれど二人の間に入った小さな傷のかさぶたを剥がしあううちにどんどん大きくなってきてしまいました。 この冷戦中、ヒバリは2回山本の血を飲み逃しています。山本が意地悪をして飲ませないのではありません。ヒバリが意地をはって飲まないのです。 「誰がおまえの血なんか飲むかこんにゃろう」というオーラを漂わせるヒバリに山本もカッチーンときて「じゃあそうやって意地はってたらいいだろうふんだ」という気分なのです。終結宣言は出来そうにありません。ゴルバチョフとブッシュは二人の心にはいないのです。 ヒバリは飲み逃した2回分が内心惜しくてたまりません。心の中では残念なあまり哀しみの雨で洪水が起こっています。でも折れるわけにはいきません。ここで折れたらなんのために2回我慢したかわからないからです。どんどん自分からの仲直りの道を閉ざしていきます。 山本も山本で本当は山本の血が欲しくて欲しくてたまらないヒバリの内心などお見通しで、そのくせ意固地になっているヒバリに普段は広い広い心が狭くなってしまっています。 いつまで続くのかと思われた攻防は、ある日劇的な局面を迎えました。 山本は冷戦が始まってから帰りが格段に遅くなっていました。夕方日が沈む頃には帰って来ていた山本でしたが、ここ二週間は10時頃です。ヒバリはお散歩にもいかず山本の帰りを待ちます。 基本的に昼夜が真逆の二人。下手したらお互いが起きてる時間に全く会わないことも有り得るので、太陽が沈みヒバリが自由に行動出来るようになっても、山本が帰るまでは外に行かないでというのが二人の約束ごとでした。 冷戦中もその約束をヒバリはきちんと守っていました。律義な子です。山本が早く帰って来てくれないと、ヒバリはその分大好きな月夜の散歩の時間が減るのです。苛々しながらヒバリは山本の帰りを待っていました。 そんなヒバリの胸中を知ってか知らずか、山本は今日はさらに一時間遅い11時に帰ってきたのです。 「…ずいぶん遅いお帰りだね。何処で何してたのかな?」 ヒバリは言葉に刺を込めながら冷ややかな目で山本を見ます。山本は荷物を下ろしながら平気な顔をしています。 座り込むと携帯を取り出してかしかしメールを打ち始めます。さっきまで一緒に飲んでいた友達にです。 「友達とちょっと飲んできただけ。遅いっつーけど、これでももっと呑もうっつー誘い断って帰ってきてんだぜ?」 大目に見てくれよという山本にヒバリは不満そうな視線を送り唇を少し尖らせます。 「そんなの君の都合じゃないか。僕には関係ないよ」 「関係なくねーよ。うちで飲めりゃすぐ帰ってこれんだぜ?けどヒバリがいっから、んなこと出来ねーし…」 「僕が邪魔だって言いたいわけ」 その言葉に、山本は少し目を見開いてメールを打っていた手を止めます。そして視線をヒバリに向けます。上目がちで睨むようなヒバリと目が合いました。 「…なんだよそれ…。んなこと言ってねーじゃん」 「言ってるよ。僕がいるからそれが出来ないんでしょ。僕がいなきゃいいんでしょ」 「だからなんでそうなるんだよ」 二人とも少し強い口調で言い合います。 ヒバリは唇を少し噛んでじっと山本を睨むように見つめます。 山本はその視線を受けながら少し眉間にしわを寄せてヒバリを見つめ返します。 「…もういいよ」 ぽつり呟いたヒバリが視線を逸らして、玄関に向かいました。 「ちょっ…ヒバリ!」 山本は片膝で立ちその背に声を投げ掛けますが、ヒバリは振り向くことなく扉の向こうへと姿を消しました。ガチャンと戸が閉まる音が部屋に響いて、階段を下る足音が小さくなっていきます。 「………」 部屋に残された山本はヒバリが消えた方を見つめていましたが、俯いて携帯を握り締め腰を下ろしました。壁に寄り掛かります。 『僕が邪魔だって言いたいわけ』 思いきり殴られたような気がしました。物凄い一撃でした。 もちろんそんなこと思った覚えは一度もありません。冷戦中だってそうです。ヒバリがいなければいいなんて絶対有り得ないです。 けれど、本当にそうだったでしょうか? ヒバリと暮らすようになって、山本の日常は少し制限されるようになりました。 無意識に煩わしいと思っていたのかもしれません。 「………」 ヒバリの言葉の衝撃に、山本はノックダウン寸前。机に頬を押しつけて、しばらく何も考えられそうにありませんでした。 一方、山本の家から出てきたヒバリは月明りを浴びながら一人目的もなく歩きます。 自分はあそこにいてはいけないのかもしれない。心の片隅でずっとずっと思っていたことです。自分の存在が山本を束縛している。疎ましいと思ってるに決まってる。 けど山本は文句も言わずいつも自分のわがままに振り回されてくれるから、ヒバリも何も言わず山本に甘えていたのです。 最初から、吸血鬼と人間が一緒に生活するなんて無理だったんだ。 ヒバリは一人誰もいない通りを歩いて行ったのでした。 ヒバリは公園に着きました。いつかの夜の散歩の時、山本と来た公園、そのときも今も、もちろん誰もいません。遊具が白い明かりに照らされています。 ヒバリは隅にあったブランコに腰掛けました。前は隣りに山本が乗って立ち漕ぎをして音をたてていたけれど、今は静寂に満ちています。 「………」 膝を使って、座っているブランコを揺らしてみました。ブランコは小さく悲鳴をあげます。揺れながら、街灯が伸ばす影をヒバリはぼんやりと見つめていました。 砂利を踏む音がしました。ヒバリはそちらを見ずにブランコで揺られています。 「こんな遅くに、一人でなにしてんだいお嬢さん」 声を掛けられて、ヒバリは揺れるのをやめてそちらを見ました。 「馬鹿じゃないの君」 「馬鹿とはなんだよ馬鹿とは」 視線の先、ブランコを囲む低い鉄棒の向こうに山本が立っていました。 山本はその棒を難なく跨ぐと、それ以上ブランコには近付かず鉄棒に腰を下ろします。 二人とも視線を互いに向けません。ヒバリは自分の爪先を見つめているし、山本も二人の中間くらいに視線を落ち着けています。 沈黙が落ちました。時折通る車の音が二人の間、宙を舞います。ゆっくりヒバリがまたブランコを揺らし始めました。一定の間隔でブランコがか細く声を上げます。間隔が短くなって、ブランコはまた止まりました。 「…何しにきたの」 先に口を開いたのはヒバリでした。視線は変わらず自分の爪先です。 山本は一度ヒバリに視線を向けて、やはりまた視線を逸らして他のところを見ます。 「何しに来たんだろうなぁ」 自分でもよくわかっていませんでした。それでも部屋を出ていました。人気の少ない通りを見回しながら、ヒバリを探していたのです。 「………」 「………」 会話が続きません。また一台、車が横の道路を通り過ぎていきました。 「俺はさ…」 ぽつり呟かれた山本の言葉にもヒバリは反応せずブランコの代わりに爪先を立てて揺らします。山本もヒバリを見ていません。 山本は視線を彷徨わせながら、困ったように一度頬を掻くと手を下ろし、視線をヒバリではない違うところに落ち着けて呟きました。 「ヒバリがいねぇと、嫌だよ」 「………」 ヒバリはただ俯いて、鎖を握る手に力を込めました。 なんで嫌なの?僕がいない方が、君はずっと自由になれるのに。 喉まで出かかった言葉は、唇が小さく噛み締められていて零れることはありませんでした。 山本と暮らすようになった最初の頃、人間の世界は決まりと常識で縛られていてヒバリにはとても息苦しいものでした。 一つ一つを教えてくれて、息の仕方を教えてくれたのは山本です。納得がいかないとゴネる雲雀に根気強くこの世界のルールを教えたのです。 山本の言うことをいつだって今だってヒバリは理解出来ません。とても難しいことを言われている気がするのです。山本は簡単だと言うけれど、ヒバリにはそうは思えない。 だからヒバリは山本に言われたことを言われたまま飲み込むことにしました。あぁそうなんだと割り切ることにしたのです。どうしてそうなるのかとか、いくら考えても答えが出ない。それが人間である山本と一緒に暮らすようになってヒバリがようやく理解したこと。 「ねぇ」 小さく呼び掛けて手招きします。黙って近寄ってきた山本の服のポケットに指を引っ掛けてさらに引き寄せます。そのままヒバリを見た山本をじっと見上げていれば、山本が手を広げて互いの距離を短くしてくれます。月明りが伸ばす二人の影がいびつな一つになりました。 山本と暮らすようになって、もう一つヒバリが学んだのは山本の腕の中は落ち着くということ。山本の肩に頭を寄せます。元からちょうど良い高さなのか、これがちょうど良いと思うようになったのか、どちらなのかヒバリには分からないけれど、別にどっちだって構わないのです。 「ごめんな」 「………」 頭上から降ってきた山本の謝罪にヒバリは黙り込んだまま額をさらに山本の胸に押しつけます。 「帰ろっか」 ヒバリが小さく頷いたので、身体を離す山本のポケットにヒバリの指はまだ引っ掛かったままです。 「何?」 「………」 「………」 ヒバリは黙ったままじっと山本を見上げています。山本も真っ直ぐヒバリの目を見つめ返します。 二人して見つめあっていると、今度は二台、車が通り過ぎていきました。 帰り道、道路に伸びる影は一つでした。 「今度さー、ツナや獄寺たちと遊び行こうっつー話してんだけどさ、ヒバリも一緒にいかね?」 山本は肩に頬を、背中に胸をぴったりと寄せているヒバリに声を掛けます。 「群れるのは嫌い」 「小僧もきっと来るけど」 「じゃあリボーンと二人で行きたい」 「それはダメー。俺小僧に妬いちまう」 他愛ないことを話す山本の声にヒバリは山本の肩に頭を預けながら耳を傾けます。 山本が一歩足を進める度僅かに上下する振動を感じながら、山本の首に回した自分の腕を握る手に少し力を込めて、ヒバリはそっと目を閉じました。 僕も 君がいなくちゃ 嫌だよ。 |