月を見上げて幾千夜。普段ならば取りたてて何も感じないのに、今宵見上げた月は何故だか、遠い昔に見たもののようでした。
一人誰もいない夜の街で月を仰いでいたヒバリの耳に、懐かしい声が響きます。
『今日は月が綺麗でござるな。――もそうは思わぬか?』
「――……」
返事をしようと口を開いて、ヒバリはキツく唇を噛みしめました。くるりと爪先の向きを変えて、月に背を向け家路につきます。白い光が伸ばす影が、一人分であることを確認してヒバリは足を前に出す速度を次第に早め、いつの間にか駆け出していました。
声がなおも響きます。
『なぁ、――ィ』
ドアを勢いよく閉めて、布団に飛び込もうとしてヒバリは思いとどまりました。布団にはもう既に、一人分のふくらみがあります。今の勢いのままに飛び乗れば、間違いなくそれを潰していたことでしょう。
「……」
ヒバリは今までの勢いが嘘のようにそっとベッドに腰を掛けました。そして、大きな身体を小さくしながらセミダブルのベッドにもう一人分のスペースを作る山本にそっと手を伸ばしました。ですがその手は山本の黒髪に触れる前に握りしめられ、ヒバリもベッドに横になり、を頭からかぶると堅く目を瞑りました。
久しく昔のことなど忘れていたのにどうして今日に限って思い出したりしたのでしょう。200年の眠りから覚めてしばらくは、眠る前のことを思い出すこともあったけれど、それでもその記憶に敢えて蓋をし続けていました。山本と出会って、思い出すことすら忘れていたのに、どうして。
そんなことを考えながら眠りについたせいか、その日ヒバリは夢を見ました。200年以上も前に別れた嫌悪すべき同族の声がします。
『クフフ、君は全く、何処までも愚かしい人ですね。そんなに大切なものだったなら、隷属にして永久に側に置いておけば良かったものを』
『…別に、そうまでして欲しかったわけじゃない』
『おや、そうですか』
不愉快な笑い声に反論しようとしたその時に別の音が響いた。
『何を怒っているでござるか? ――ィ』
その音がヒバリの喉を塞ぎ、ヒバリは弾かれるように声がした方を向きました。優しい笑顔を浮かべたその人が其処には立っていました。いつものように差し伸べてくれる手に、ヒバリも手を伸ばします。
けれど、伸ばされた手を取る前にその幻は雨粒となって消え失せて、ヒバリの手の中には雫だけが残りました。
『……』
背後ではそんな自分を嘲笑する声がします。雨が降ってきました。茫洋とした空とヒバリの間には何もなく、雨は容赦なくヒバリを打ちつけます。嘲笑はいつの間にか消え失せて雨音しかしません。
薄く開いたヒバリの唇からするりと消えたその人の名が零れ落ちて滴ります。けれど、その名を聞いた人はその場には誰もいませんでした。



「――リ。――バリー。 おーいヒバリー」
「…うるさいな…」
自分を呼ぶ声と揺さぶられる衝撃に、ヒバリは煩わしそうに眉を寄せて肩を掴む手を振り払い、布団を頭から被りました。聞こえなくなった声にまた寝なおそうとしたとき、はたと気づいてヒバリは布団を跳ねのけて起き上がります。目の前に布団の塊がいました。
その中身が誰かなんていまさらなのに、ヒバリはそっと布団を剥いで中を覗き込みました。短い黒髪が最初に見え、それから苦笑している山本の顔が見えました。布団を頭から被ったせいで、短いとはいえ髪がぐちゃぐちゃです。
「君、何遊んでんの? かくれんぼ?」
「そりゃねーぜ。俺に布団かぶせたのはヒバリ…」
「布団返して。僕まだ眠いんだけど」
自分が被せた布団を山本から剥がして、ヒバリはまたベッドに寝転び布団を被りました。そして目を閉じますが、目の前に人の気配を感じて目を開けます。山本の方に背を向けて寝ていたため、わざわざ覗きこむようにしている山本が視界に入りました。
「…なに?」
そういえば山本に起こされたのでした。普段なら起こしたりしないで、自分の支度を始めるのに。そう思って問いかけたヒバリでしたが、山本は眉をハの字にして曖昧に笑うだけです。
別に用がないのなら今度こそ寝なおそう。そう思い、目を閉じたヒバリは頬に触れるものを感じて目を開けました。山本の指先がヒバリの頬をなぞっています。なにかを拭うように動く親指を目で追ってから、ヒバリは山本に視線を向けました。
山本は困ったようにしながら、それでも優しい笑みを浮かべています。そして静かに問いかけてきました。
「怖い夢でも見たか?」
「怖い夢? 別に、そんなもの見てない」
怖い物など思いつかないのに、どうして怖い夢が見れるでしょう。ヒバリの答えに、山本は慈しむようにヒバリの頭を撫でて再度問いかけました。
「じゃあ、悲しい夢?」
悲しいことも特にないのに、どうして悲しいなんて思うでしょう。口を開いて、ヒバリは山本が撫でた自分の睫毛が濡れていることに気が付きました。目を瞬かせれば、少し冷たい飛沫を感じます。泣いていたのかと何処か他人事のように思いながら、ヒバリは改めて山本を見ました。
頭を、頬を撫でる山本の手に手を重ねて、ヒバリは答えないまま、逆に山本に問いかけました。
「どうして君がそんな顔をしてるの?」
目に涙など浮かべていないのに、ヒバリには山本が今にも泣いてしまいそうに見えました。
「なんでだろうなぁ…。俺にもよくわかんねーや」
そう言って笑う山本の表情は歪で、ヒバリは瞬きをして山本の茶色がかった瞳を見つめました。瞬きをひとつして、口を開きます。
「昔の、夢を見たよ」
「昔の?」
「そう。君と会う前、イタリアの城で、眠りにつくよりも前の夢」
そう言ってヒバリは山本の手に自分の頬を擦り寄せました。
「ねぇ、僕の名前を呼んでよ」
「ヒバリ?」
「そう」
「ヒバリ」
「もっと」
「ヒバリ」
「ずっと呼んでて」
山本がヒバリの名前を繰り返すのを聞きながら、ヒバリはそっと目を閉じました。しばらくそうしていて、ヒバリがぽつりとつぶやきます。
「昔、僕を違う名前で呼ぶ男がいたよ」
優しい声と、優しい笑みと、心地よい温もりを持った彼は結局、最後まで別の人の影を僕に重ねて絶えていった。淡々と告げるヒバリに、山本は静かに尋ねます。
「辛かった?」
そう問いかける山本の声は何処までも優しいものでした。
「分からないよ。そんなの」
半世紀以上もそんな日々を続けてきました。幾らでも自分の名前はヒバリだと告げることはできたのに、訂正しなかったのはヒバリ自身でした。
「大切だったんだな。そいつのこと」
妬けてしまうと笑う山本に、ヒバリもほんの少しだけ笑って深く息を吐きました。今は朝なのです。ヒバリは眠りにおちている時間で、段々と瞼が開きづらくなっていることを感じ、瞬きを繰り返しました。
「おやすみ、ヒバリ」
寝かしつけるように身体の上で弾む手が与える振動が心地よくて、ヒバリの意識は闇に落ちていきます。山本のものではない声がしました。自分の名前ではない名を呼ぶ、朗らかな声です。
『おやすみ、――アラウディ』
違うよ、僕はヒバリだ。雲雀恭弥だ。そう言えなかったのは、ヒバリにそっくりだというその男の代わりでもいいと思ってしまったからだと、ヒバリは分かっていました。
永遠の生を手に入れて、独りでなんでもできるとそう思っていました。群れるだなんてもってのほかで、何よりも孤高であることを好んだヒバリの城に現れたその人が、側にいてくれるのならば、その目に映る姿が自分のものでなくても、かまわないと思っていたのです。それでも人の命は儚くて、幸せな日々は半世紀を越した頃に終わりを告げました。
また独りになったヒバリは彼を待って、待って、待って、200年の時を超えて巡り合った山本武は、あまりにも彼に似ていました。
(僕は同じことを、山本武にしてるのかな)
山本に彼の事を告げたら、山本はどう思うのでしょう。ヒバリは言えませんでした。言える日が来るとも思えません。
それは彼に、浅利雨月に自分の名前を言いだせなかった時に抱いた感情とよく似ていたのですが、ヒバリはそれに気づくこともなかったのでした。