潮の香りがして、波の音がします。
音に合わせて這うように近付いてきた海水が闇に溶けかけている二人の足を撫で 上げます。
朗らかな声が響きます。
「ちょっと冷てぇな〜」
パシャンと波を蹴りあげて山本が言いました。
「そうかな」
対してヒバリは真っ黒な海を少し目を伏せてただただじっと見つめていました。



それはなんの前触れもありませんでした。
夕方になって、帰って来た山本が戸を開けるなり言いました。
「なぁヒバリ、出掛けようぜ」
そう言った山本に従って家を出れば山本が借りて来た車が目に入ります。
それに乗り込んでからヒバリは山本に尋ねました。
「何処に行くの」
「ん。んー、内緒。着いてからのお楽しみなのな〜」
「………」
ヒバリは特に追及もせず流れていく景色を眺めていました。
程なくしてぽっかりと浮かぶ月に照らされた闇夜の海が二人の前に広がりました 。
「海…」
「そ。ヒバリと来てみたかったのな」
プールの人工の波なんかじゃない、本物の波だぜ。と山本は無邪気な声をあげま したがヒバリは己の黒髪のような色をした海を前に少し目を丸くしていました。
「行こうぜ」
「何処へ」
「浜辺。せっかく来たんだからよ」
もっと側まで行こうと、山本はヒバリの手を引きました。
靴なんて放り捨てて山本はザバザバと暗黒の海に進んでいきます。
ヒバリは小さな一歩で、それでも確かに海に近付いて、押し寄せた波が自分の足 を濡らすのを黙って見ていました。



「ほんと真っ黒だな〜」
昼間広がる青い空、青い海は黒く塗りつぶされ、己の光で独りぼっちになってし まっている月が二人を照らしています。
余りに深い闇に飲み込まれ戻れなくなってしまうような気がして、見えない線の 手前、膝まで濡れる位置で山本は足を止めます。水平線に向けていた視 線を浜辺側のヒバリに向けます。
「なーヒバリー、海、ど?」
「………」
「青い空ー青い海ーは無理だし、夜の海はプールみたく泳げねーけどな」
「………悪くないんじゃない」
「そか。良かった」
笑って山本はまた海の向こうを見やりました。ぽつりと、後ろから声がしました 。
「海は、昔来たことがあるよ。こんな風に、浜辺に立ちはしなかったけど」
紡がれた言葉に山本は振り返ります。ヒバリが昔話をするのなんて初めてかもし れない。そう思いながら返事をします。
「へぇ…誰かと?」
「………」
ヒバリは答えません。伏せていた瞳を少しあげて、真っ直ぐ空と海の狭間を見つ めます。
「そのときは、夜明けの海だった。だから、ほとんど見れやしなかったけど、綺 麗だったよ」
「そっか」
ヒバリが問いに答えなかったことを、山本は追及しませんでした。ただ小さく笑 んで頷いてやります。
「うん」
ぱしゃん。ヒバリが波を蹴りあげます。飛沫が月明りでキラキラと輝いてまた黒 に溶けます。 それからヒバリは山本に視線を向けました。
目と目が合って、その深い深い闇色の瞳に山本は目を逸らせなくなります。です がヒバリはすぐにふいと目を逸らして空を見上げました。
「星がないね」
言われて山本も見上げます。ヒバリの言葉通り、月の明かりにかき消されて星は ほとんど見えません。
「そうだな」
「何時まで此処にいるの」
「んー、別に何時までってこともねーけど。明日も休みだし。…もう帰りてぇ? 」
山本の言葉にヒバリはふるふると首を振ります。
「違う」
夜明けまで、此処にいようよ。
思いがけないヒバリの提案に、山本は少し目を丸くしてヒバリを見ました。
「…マジで?」
こくりとヒバリは頷きます。
「でも」
「日が昇りきる前に離れれば大丈夫だよ」
ヒバリがすっと山本に手を伸ばしたので、山本はその手を取ります。
ヒバリはじっと山本を見つめて繰り返しました。
「夜明けまで、此処にいようよ」



一応持って来ていた日傘を携えて二人は浜辺に座り込んでいました。波がいくら 押し寄せようと、もう二人には届きません。
ぽつりぽつりと交わしていた会話も絶え、視線も向けない状況がしばらく続き、 ただ波音に耳を傾けていました。
「もう、日が昇るな」
少しずつ、月が夜色のカーテンを引っ張りながら舞台から消えようとしています 。
「そうだね」
ゆるゆると空と海の境界がはっきりしてくるのに山本は日傘を開いて翳しました 。
夜が明けます。
「すげぇな」
独り言のように呟けば、それと同じくらい小さな声が返ってきました。
「綺麗」
こて、と山本は右肩に重みを感じて視線を向ければ黒髪が頬に当たります。
「あの日見たのと、同じくらい綺麗…」
「ヒバリ…?」
呼び掛けても返ってくるのは寝息ばかりで山本は仕方なさそうに小さく笑って息 を吐きました。
こんなところで眠るなんて、もうちょっと自分の身を案じて欲しいと思います。
けれど信頼の証と受け取ってもいいのだろうかと思うと自然と唇が緩みました。
「ヒバリー…」
小さな声で呼び掛けてみても、返事はありません。
山本は小さく身じろいで肩でなく右腕を回してヒバリの身体を支えました。
「───………」
じっと眠るヒバリを見つめて、それからちょっと身を屈めてヒバリの髪に口付け ました。
唇を離して、まだすよすよと眠り続けるヒバリを目を細めて見つめます。
「また、俺と来ような」
昔ヒバリといたらしい、見ず知らずの人に嫉妬した。
自分の知らないヒバリを、知ってるのかもしれないけど、自分はきっとあんたの 知らないヒバリを知ってるよと張り合った。
子供染みてて馬鹿みたいとはわかってる。

君が望むなら、幾らでも何処にでも連れてくから。
その時は同じもの、一緒に見ような。