朝を告げる目覚ましが盛大に部屋に鳴り響きました。
ベッドから伸びた手は時計を鷲掴みにすると、手探りで探り当てたスイッチを切ります。
「っあ〜………」
もぞもぞと起き出した山本が大きく伸びをします。
カーテンが開けっ放しの窓からはさんさんと日が差し込んでいます。
山本はその日差しをふんだんに浴びてから、カーテンを半分閉めるとすぐ真横、布団を頭から被って丸まって寝ているヒバリを見下ろします。黒い髪の毛先しか見えません。
山本に背を、窓に背を向けていつもヒバリは寝ています。
ヒバリが寝ているところがちゃんとカーテンで陰になっているのを確認すると、山本はベッドから抜け出して朝の支度を始めました。
まず洗面所に向かいます。
山本がベッドから抜け出す際のベッドの軋みで、ヒバリがうっすらと目を覚ましました。
もそっと目まで布団をずりさげて、洗面所に向かう山本の背を見つめます。
「………」
山本が洗面所に消えると、ヒバリはまた布団を頭まで被って、山本のぬくもりが残っている場所に寝返りをうちました。
今現在体温が低い自分が寝ているところより、体温の高い山本が寝ていたところの方が暖かいのです。
ぬくぬくしてまどろんでいると、顔を洗いさっぱりした山本が部屋に戻って来ます。
寝返りをうったヒバリは当然また山本に背を向けています。
ヒバリは基本的に一度眠ったら起きるまで身動ぎ一つしないので、向きが変わっているということは起きているということだと、山本は最近気付いたのです。
寝ているフリを続けるヒバリに、山本は口許を緩めるとベッドに腰掛けます。
ベッドが軋みましたがそれにも構わず手をヒバリの頭のすぐ真横につけば黒髪がさらりと流れました。
「ヒーバリー。もう起きろー。飯の前に顔洗ってこーい」
「………」
返事はありません。
昔は『吸血鬼は夜行性だし、仕方ねぇか』と諦めていましたがもう今は起きているとわかっているのだから起きてもらいます。
「おーい、ヒーバリー」
布団をずり下ろして顔を覗きこめばすっと目が開いて視線がぶつかります。
「おはよ」
「………」
「俺朝作るから、ヒバリそれまでに着替えたりしておけよ〜」
どさくさに紛れてキスを落とせば肘で殴られます。ついでにベッドからも落ちました。
「ふん…」
「イッテー………。朝から過激だなぁったくー」
ずるずると布団を頭から被ったままヒバリは洗面所に向かっていきます。
山本は殴られた腹を押さえながらそれを見届けると、自分の朝食の支度を始めました。
今日は食パンにバターを塗って、目玉焼きにベーコン、昨日のサラダに牛乳です。
山本の料理中に、洗面所からヒバリが出てきました。
頭から被っていた布団はもう小脇に抱えられ、でもやはり引きずられています。
ヒバリは布団をベッドに戻すと、その上にまた横になりました。
そこが家で確実に日陰な場所だからです。
「ヒバリ今日は何にすんだ〜?」
自分の湯気の立つ料理を机に運びながら山本はヒバリに問い掛けました。
「…何が残ってるの」
冷凍庫の一角を覗いて、山本は中のものを物色します。
「うーん…。OとBだけだなぁ」
それを聞いてヒバリは少し考えると、壁に張られたカレンダーを見ました。
今日は金曜日。
「じゃあB」
「あいよ」
山本はB型と書かれたパックを取り出すとレンジに放り込んであたため加熱を押しました。
「もう新しいのもらわなきゃねぇなー。ヒバリの朝飯」
「別に僕は外で食事してきてもいいんだけど」
「それはダメ」
レンジが音を立てた頃、机に料理が並び終わります。
「ほいよ」
レンジから取り出されたひと肌に温まったパックをヒバリに投げます。
そして山本は机に向かいました。
「んじゃ、いただきますと」
山本はおいしそうに朝食を食べますが、ヒバリは投げられたパックを手にしたまま、難しい顔をしています。
そして難しい顔のままパックの封を開けて飲み始めます。
ヒバリの顔はますますしかめられていきます。
「ヒバリー、すげぇ顔してるぞー」
「まずい」
「我慢しろって。輸血パック回してもらってるだけでも幸いだろー」
輸血パックの血液はまずいのでヒバリは好きじゃありません。けれど空腹にはかえられないのでしぶしぶ我慢です。
まずいまずい輸血パックで我慢出来るのも、週に一度、土曜日だけ山本の血が飲めるからこそなのです。
山本はO型。今日B型を選んだのはそのためでした。が。
「あ、そだワリィ。明日俺用事あるから」
「え?」
「今金欠で肉買う余裕もねぇし。だから明日は勘弁な」
すまなそうに言う山本に、そこらの女性なら笑って許してしまうでしょう。
けれど今の相手はヒバリなのです。そんなものでは許せない。
山本の血は週に一度、では実はないのです。
山本が用事のある土曜日はダメなのです。用事のない多少血がなくなっても支障のない土曜日のみ、ヒバリは山本の血を吸えるのです。
先週、山本は土曜日に用事があってヒバリは血を吸えなかったのです。
だからこそ今週の土曜日を心密かに楽しみにしていたというのにこの男は。
ヒバリを絶望が襲います。食べ物絡みの感情はなにより恐ろしいものなのです。
固まって黙り込んでしまったヒバリの様子を、山本は朝食を食べながら伺います。
「ヒバリ…?」
「…わかった」
空になった輸血パックのゴミを、ヒバリは握りつぶすとベッドから立ち上がりゴミをゴミ箱に投げ捨てます。
そしてそのまま玄関に向かって行きました。
「ヒバリー?どこ行くんだー」
山本は朝食を食べ終え牛乳を片手にその様子を目で追っていました。
ヒバリが一瞬立ち止まって、山本を睨み付けます。
「ふん…」
それからぷいと顔を逸らして靴を履きます。
山本は朝食の食器の片付けに入りました。
二週間も新鮮な血が飲めないなんて冗談じゃない。本当は毎日だってヒトの体を流れる血を吸いたいのに。
週に一度だってヒバリとしては十分妥協しているのだ。もう耐えられない。
ヒバリは部屋を出ていってしまいました。
扉が開いて閉まる音に、山本は洗い物の手を止めて玄関を見ました。
当然、ヒバリはいません。
「…ヒバリ?」



まずい輸血パックの血の味が口の中に残っています。
だれか口直しにいないだろうか。
イライラしながらヒバリはボロアパートの階段を下りていきます。
アパートは部屋の窓が南を向いているので、玄関は北向き、日陰でした。
だから悠々と外まで来たのはよかったのですが、困ったことになりました。
日光が地面を焼いているのです。
ヒバリに日光は厳禁です。たちまち火傷してしまうし、当たり続ければ燃え尽きて灰になってしまいます。
苛立ちからうっかり日傘を忘れて来てしまったヒバリは先に進めません。
とはいえ出て来た家に戻るのも癪。
黒い服は紫外線を通さないから体はなんとかなりますが、顔と頭はどうしようもありません。
ヒバリはアパートが作る陰、ギリギリのところでじっと日の当たる道を見つめていました。



「ヒーバリー?」
山本はトイレを覗きましたがヒバリはいません。
「っかしーなぁ…」
家の何処にもいません。
けれど日傘はあります。外へ行くなら日傘を持って行くはずなのに。
と、山本はここでヒバリの靴がないことに気付きました。
今まで日傘があるからと靴を確認していなかったのです。
「ヒバリまさか…」
外へ?日傘も持たずに。まさかそんな。
日光に弱いヒバリが傘もささずに朝とはいえ夏場外へ出て行くなんて自殺行為です。
そしてそう、今の季節は夏。
蚊取り線香の季節です。何故かヒバリは蚊取り線香にも弱いのです。吸血鬼のくせに。
虫除けスプレーをした子供が遊んでいたり、よそ様の焚いた蚊取り線香が風に乗って来たりしたら。さぁ大変。
「ヒバリ…!」
山本は顔色を変えて慌てて外に飛び出しました。
アパート2階から見回しますが、ヒバリの姿は見えません。
アパートの黒い陰の向こう、アスファルトを焼く日差しは見るからに暑そうです。
ヒバリが今まで太陽が昇っている時間に一人で外に出るというのは滅多にありませんでした。
山本がいない昼間、ヒバリが一人で何をやっているのか山本は知りませんが何時に帰ってもヒバリは大抵家にいるのでずっと家にいるものだとばかり思っていました。
曇りの日は一人好き勝手にぶらぶらしていますが、こんな晴れた日は出掛けるとしても山本と一緒、日傘装備です。
一人で日傘もなくこんな炎天下。
山本の胸の内は悪い方へと向かいます。
太陽がどこもかしこも当たって狭い日陰で身動きが取れなくなってたらどうする。
最悪日に当たって照り焼かれてたらどうする。
ヒバリ、ヒバリ、ヒバリ。
「何処行っちまったんだ…?!」



その頃ヒバリは。
日向の場所を避けるように日陰日陰を歩いていました。
どうしても日陰が途切れてしまうときは最短の他の日陰まで走ります。
とはいえ、少し日に当たるのです。なんだか手がヒリヒリします。
「ちっ…」
舌打ちしてヒバリは日陰でヒトを探しました。
けれど健康で血がおいしそうなヒトは皆日向にいるので手が出せません。さて困った。
きょろきょろと当たりを見回しながらヒバリは進んで行きます。
歩いてー、走ってー、で疲れてきました。
普段ならまだ寝ている時間です。
朝は山本が起きるので起きますが、山本が出掛けるとヒバリはカーテンを閉めてまた寝ているのです。
たまには室内に太陽光をいれないと、と遮光性のカーテンを開け放って自分は布団を持って日の当たらないところでやはり寝ていました。
昨日だって夜は月明り散歩に出掛けて月を眺めて帰って来て、山本の寝ている布団に潜り込んだのは夜が開ける数十分前。
寝不足で眠くなってきました。
ヒバリはやはり辺りを見渡します。けれどその探す対象は他のものに替わっていました。
寝れそうな場所。ヒトに見つからなさそうな日陰。
どんどん眠くなってきます。
もういいやここで。
眠気に負けていい加減な気持ちで日陰で横になりました。
そしてすよすよと健やかな寝息をたて始めたのでした。



山本はアパートから一番近かった日陰に沿ってヒバリを探していました。
とはいえ日陰は180°広がっていたのです。左右を間違えればてんで的はずれな方を探していることになります。
「ヒバリ…、何処にいんだよ…!」
山本は必死でヒバリを探します。
脳裏をかすめる最悪の事態を振り払いながら必死に日陰を探します。
ふと、ヒバリが他人の血を吸っていたらと言うことに思い至りました。
思わず足が止まります。
ヒバリは吸血鬼です。好物は血。
輸血パックの血はまずいまずいと文句ばかりで、新鮮な血はもう2週間もお預け。
血を求めて家から出ていったのなら十分に有り得ます。
もし仮にそんな事態が起こっていたら。
ヒバリは処分されてしまうでしょう。
吸血鬼なんてそんなファンタジーだけの存在、だと思っていましたがヒバリ曰く昔はもっといたけどヒトに害をなすからと次々に殺されていったそうな。
ヒバリは吸血鬼でも見た目は人間と変わらないので何もなければよいのですが、吸血鬼だとバレてしまったら最後、処刑は免れないでしょう。ヒトの血を吸ったのなら尚更。
「ヒバリ…」
山本は動けません。
蝉の泣き声が大きくなってきました。



今、ヒバリの目の前には食材が倒れていました。
柄の悪いにーちゃん三人です。蝉の声のうるささに目を覚まし。また歩きだしたら絡まれたのでついのしてしまいました。
日に焼けた肌の三人を前にして、ヒバリは考えます。
どうしようか、すごくまずそうだ。
けれど殴ったため流れている血はてかてかと輝いて、ヒバリの喉が鳴ります。
輸血パックのまずい血と、山本のおいしいサラサラ血液を知っているヒバリは迷います。
でも生きた人間だし、輸血パックよりまずいことはないだろうし。なにより約二週間ぶりのヒトの血だ。これを逃したら三週間、山本が来週も用事とか言い出したら一か月も新鮮な血が飲めない。それは嫌だ。
じゅるり。
ヒバリの目付きが変わります。
そして食事用のストローを取り出しました。
本当は噛み付いて血を啜りたいのですが、そんなことしては相手が吸血鬼になってしまうし、吸血鬼にしないためには血を吸い殺さねばならないし。
吸い殺すのは構わないのですが、変死体事件と世間が騒いでしまいます。
先が鋭く尖ったその針を、男の一人の手首に近付けます。
(よそ様の血は吸っちゃダメだかんな)
思い出した言葉に思わずヒバリは動きを止めます。
(血なら俺のやるから、絶対、他の奴の血は吸うなよ)
念押しで何度もいわれた言葉です。
………。
血をくれないからこうして探し歩いて来たんじゃないか。嘘つきめ。
ヒバリはまた針の狙いを手首の脈に定めました。



山本はずっと走っていました。そしてやっと見つけたのです。
木と生け垣の陰に紛れるように探し人の横顔が見えました。
「ヒバリ…!」
「!」
近寄って呼び掛ければヒバリが驚いたように振り返りました。
「…無事でよかった…」
山本はさらに近寄っていきます。
ヒバリは陰に納まるように身を小さくしながら体育座りをして、寄って来る山本を見上げました。
見上げる山本は汗だくです。
「………」
「日傘も持たねぇでこんな炎天下家出てくなんて、何考えてんだよ…」
「………」
山本がしゃがみ込んで目線の高さを合わせようとするのでヒバリはふぃと顔を逸らしました。
「あーあー、軽く火傷しちまってるじゃん。ったくー」
山本は膝の前で組まれた手をとり赤くなっているのを認めると大層な声を上げました。
「痛いだろ?家帰ったら冷やさなきゃな。顔は平気か?」
背けられている頬に手を当てて顔を覗き込みます。ヒバリが嫌そうに顔をしかめその手から逃れようとしましたが、そんな抵抗は許しません。
顔は平気そうなので手を放してやればヒバリは変わらず山本から顔を背け続けます。
しばし間があいて。
「ヒバリ」
「………」
「誰かの、血を吸った?」
「………」
ヒバリは答えません。
「ヒバリ…」
山本は心の中で自問します。
もし吸った、と答えられたら、自分はどうするつもりだ?どうすればいい?
「…吸った」
山本は心臓が凍り付くような気がしました。
「って、言ったらどうするのかな?」
ヒバリは意地悪く笑いながら問い掛けてきました。真っ直ぐ目を見て。
自分を見つめる目を見つめ返しながら山本は綺麗な目だなぁとぼんやり思っていました。
「どうするって…」
どうしよう。
山本が答えないでいるとヒバリは笑みを消してまた顔を背けました。
「吸ってないよ」
「は?」
「だから、吸ってない」
「………」
吸うつもりだったけど、針を皮膚に刺すに至らなかったのです。
どうしても出来なかった。きっとあいつらがまずそうだったからだとヒバリは思うことにしています。
せめて垂れている血を舐めるくらい、と思いましたがそれもヒバリのプライドが許しません。
うだうだしているうちに血は固まってかさぶたになってしまったので、ヒバリは諦めて目障りな三人を日向に投げ捨てました。
そしてそのまま日陰に座っていたら山本が現れたのです。
「…そっか」
「うん」
「そっか。そうだよな。ヒバリがヒトの血ぃ吸う訳ねぇよな」
山本は膝を叩いて笑っていますがそんな山本に未遂があったことはヒバリは黙っておきます。
「んじゃ帰ろうぜ。スイカ買って帰ろう」
山本は先に立ち上がりヒバリに手を差し出したので、ヒバリは素直にその手を取って立ち上がりました。
「お金ないんじゃなかったの?」
「まぁいいじゃねぇか。ちょっとフンパツ」
「スイカより君の血が吸いたい」
「…じゃあちょっとだけな」
山本は持って来た日傘を開いてヒバリに渡します。
ヒバリはそれを受け取って歩き始めました。
帰り道、山本はずっと機嫌がよさそうでした。
ヒバリはその三歩後ろを歩きながらその様子を見ていました。
嬉々としてスイカを買ってボロアパート2階に戻ってくると洗面所に水を張って氷をぶちこんでスイカを冷やします。
「やっべ遅刻だ。んじゃいってくっから、外出る時は日傘忘れんなよ!」
行って来ますとバタバタと出ていった山本を、流しの冷水で手を冷やしながらヒバリは見送りました。
水を止めてベッドに横になります。
新鮮な血を得損なったヒバリは結局朝の輸血パックしか飲んでません。その上歩き回ったので疲れました。
小腹も空いてきたし。
ヒバリはすぐにすよすよと寝始めました。



こうして続く平穏な日々。