降り続いていた雪がやんだ。それでもまだ空は白いくせに薄汚れた色をしていて太陽は見えない。輝きを潜めている平坦な白銀、鬱そうと白く彩られた木々の合間にあるその上を骸は一人歩いていた。黙々と歩いて、開けた場所の中心に立つ。そして酷い色をしている空を仰いだ。厚い雲のせいで空を近くに感じた。けれどそんなことは有り得ないことは分かっていた。そして、どんなに雪が美しく見えても、溶かしてしまえば汚らしい水が残るだけで、この美しさは所詮見せかけでしかないことも知っていた。


骸は一度目を閉じた。そしてまた開いてあてもなく歩き始めた。
降り積もった雪が足を重くする。歩いている途中でまた雪が降り始めた。風も吹いている。それでも骸は歩き続けた。何処に行きたいのか、何処まで行きたいのか、或いはただ現状から逃げ出したいだけに過ぎないのか、それは自分でもわからない。それでも歩いて、歩いて、歩いて。
辿り着いたのは木々さえもなく広がる雪原。エアポケットのようにぽっかりと開いたその場所を見て、骸は一瞬息を呑んで立ち止まる。
「………」
本当に真っ白なのだ。自分が壊したエストラーネオの研究室や、そこで与えられていた衣服の白じゃなく、天然の白。あらゆるものを殺ぎ落とした色だった。
骸はまた歩き出した。歩いて、歩いて、また立ち止まる。見渡せど何もない。けれど振り返ってしまえば自分の足跡が汚く残っていることは判っているので決して振り返らない。


ぽつんと、白の世界に佇む黒い自分。
まるで世界で一人きりのような気がした。
何もかも捨てて、また何もかもに見捨てられて、縋るものなどなにもないような、孤独感に浸る。


ひとりきりの完結した世界が不意に壊れる音がした。雪を踏む音。背後からの音に骸は振り返った。
そして見とめる白の世界に異質な黒。その人の存在を視認して、骸は薄く笑んだ。
「………どうしましたか?ランチア」
笑いかけられたランチアは無表情に骸を見つめて言う。
「それは俺の台詞だ。こんなところまで来て何をしている」
「見て分かりませんか?」
「分からないから聞いている」
「なら仕方ありませんね」
骸はそれ以上語らず、微笑んだままランチアから顔を逸らし前方に目を向けた。ランチアは骸から目を逸らさずその後姿をを見つめている。
二人の間を通り過ぎる風の音。雪が骸の頬にあたり、じわりと溶ける。その感覚に骸は頬に手をやった。濡れた手袋の指先を見る。そこは微かな光を受けてキラリと輝いていた。
骸は空を見上げた。広がる混沌とした空。落ちて来る雪は正直埃のようで綺麗とは言えなかった。
不意にランチアが口を開いた。
「あいつらがお前を探してたぞ」
「そうですか」
骸は振り返らずに返事をする。
あいつらとは犬と千種のことだろう。きっと二人は骸がいないことに気付いて探しに出ようとしたはずだ。けれど骸が言った、
「お外は危ないから、此処から出ちゃ行けませんよ」
という言葉が引っ掛かって外にも出れず途方に暮れているのだろう。そんな光景が骸には容易に想像出来た。

僕を探しにも行けず嘆いている二人に、庇護心でもくすぐられたというところですか、お人好しさん。

骸は心の中で問い掛ける。声には出さない。返事など、答えなどハナから求めてはいない。何故なら自分の問いの答えが正しいことを確信していたからだ。
すべては自分の想像にしか過ぎないことなのに妙にリアリティーがあって、骸はなんだか無性におかしくなって、それでもやはり声には出さず肩を揺らして笑った。そんな骸をランチアはずっと見ている。
骸の黒いコートに積もる白い雪は骸自身がほとんど振り払っていないのだろう、うっすら、なんて量ではなくランチアは骸の小さな身体が雪を被っている姿と自身が感じている寒さとがあいまってその雪を払い落として暖かとは言いがたいが家に連れ戻してやりたい衝動に駆られた。手をひいて、無理にでも家に連れ帰りたい。けれどランチアにそんなことは出来ない。今ランチアが立っている場所より先に進めないのだ。憎むべき子供、六道骸。子供に対する庇護心と骸に対する憎悪が心の中でせめぎあっている。しかしながら結局、我ながら愚かだと思いながらも声を掛けずにはいられなかった。
「…風邪をひくぞ」
その言葉に骸は一瞬、少し驚いたようにランチアに視線を向けたが、すぐに深く笑った。弓のように細められた目が心の底から愉快だと物語っている。
「クフフ、おかしなことを言うんですね」
「………」
「憎むべき僕がどうなろうと、あなたにはどうでもいいことでしょう?」
普通、むしろ風邪をこじらせて死ねばいいと願うんじゃないですかと笑う骸に、ランチアはいたたまれなくなって目を逸らした。そんなことは骸に言われなくても判っていた。しかし殺したい程憎んでいるのに、まだ骸を愛しく思う自分がいるのを自覚する。そんなこと言わないで欲しい。そんな風に笑わないで欲しい。そう思ってしまう。
骸はしばらく笑っていた。傷ついてしまったレコードのように繰り返し繰り返し笑う。
やがて笑い声をひそめた骸にランチアは視線を戻した。いまだ細められている目と目が合う。つり上がった唇が言葉を紡いだ。
「お人好し」
純粋に純粋に、彼を蔑む言葉がその唇から滴る。
「可哀相な人」
そう言って骸はおかしそうに声をあげて笑った。笑って、笑って、笑って。笑い声が褪せて最後、何処か諦めたように吐き出された溜め息がランチアの心が強く掴んだ気ががした。痛い。そう思った。
だがそんなランチアの心中など骸には関係のないことで気にする価値もないのだ。
骸は足元の雪を蹴飛ばした。舞い上がる粉雪。キラキラと輝く。そしてしゃがみ込んで足元の雪を撫でた。さらさらとした結晶が手袋に絡む。掬い上げて見つめる。冷たさが手袋を侵して骸の皮膚に届く。この寒さだ。すでに指先の感覚などなくなっていた。
黒い手袋をした手に収まる白い雪。立ち上がりもう一度辺りを見渡せど、何処もかしこも真っ白なままだ。

『この雪はどこをえらぼうにも あんまりどこもまっしろなのだ
 あんなおそろしいみだれたそらから このうつくしい雪がきたのだ』

「………」
骸は掬い上げた雪を手にしたまま、何処でもなしに見つめた。もう一度だけ、視線だけで雪原を撫でる。風に吹かれてたなびく自身のコートが視界に入り込んでよく映えた。骸は一度目を閉じて、開けた。
「ランチア」
骸の様子を見つめていたランチアに向き直る。そして笑う。手の中の雪は風に舞った。自分を抱き締めてくれるこの冷たさにも、此処にももう未練はない。
「戻りましょう」


此処は僕の居場所ではないのだから。
これからも僕は彷徨い続けなくてはならないのだ。


扉の音に反応したのか、家に戻れば声を出す前に犬と千種が駆け寄ってきた。泣きながら骸に抱きついてくる二人の体温が骸の冷え切った身体に沁みてくる。
骸さん骸さん、何処いってたんれすか。心配したんれすよ。
なんともありませんか?どこか怪我したりしてませんか。
嗚咽交じりの言葉は意味を成さないものもあったけれど、何が言いたいのかはよくわかる。次から次へと二人の目から溢れ出る涙は暖かくて、あの冷たい溶けた雪とはまったく違っていた。
ごめんなさい。もう二人を置いていったりしませんから。大丈夫、大丈夫。
なだめるように二人を抱き締め返す骸の脳裏にあの純白の雪原が掠めた。けれど風にさらわれたあの粉雪のようにそれはすぐに消え去って、すぐにぐしゃぐしゃになった犬と千種の顔に戻った。酷い顔。あの美しさとは程遠い今骸の目に映る光景。それでも。
犬、千種。
骸が二人の名を呼べば二人は真っ赤にした目を骸に向ける。そんな二人に骸は笑いかけた。あの雪に負けないほど純粋に。自分を抱き締めるこの温もり達を骸もぎゅっと抱き締めた。
「ずっと一緒」


此処が僕の居場所です。

これからは僕らの居場所を探しましょう。