夢を見ていた。
遠い遠い、昔の夢を。
幸せに彩られた、幻に溶けた夢を。




頬をなぞられる感触がランチアの意識を引き戻した。
すぐ傍らに人の気配がする。
目覚めたランチアはそれでも目を開けなかった。
目を開けなくとも、其処にいる者が誰なのか、知れたから。
確かめるように輪郭をなぞる指先は昔から変わらない。
真っ暗な瞼の裏に浮かべる幻想。描かれるのは自分を笑いながら見つめる少年の姿。
ランチアは目を開けた。
暗闇に満ちた世界に光が差し込む。
頬をなぞっていた指先が離れた。引っ込められる指先を目で追って、それからその細い指先の持ち主を見た。
其処には、無邪気に笑う、幼い少年がいた。
それは一瞬の幻像で、すぐに消えて微笑を湛えた少年が現れた。
「お目覚めですか?」
ランチアが目覚めていたことなどとっくに気付いていただろうそいつは微笑みながらランチアに問い掛けてきた。
ランチアは未だ夢うつつのまま、夢と現実の狭間に意識を置き去りにしていた。
「寝るのならこんなところじゃなくてちゃんと横になって寝ればいいのに」
壁に寄り掛かって寝ていたランチアに、骸はくすくすと笑いながら言う。
決して広くないこの部屋にもベッドはある。
しかしそのベッドをランチアは一度も使ったことはなかった。
「僕らは明日には日本に発ちますけど、落ち着いたら呼びますから待っていてくださいね」
骸はランチアの額に軽く口付けランチアの瞳を見つめて笑みを深くした。
ランチアは骸を見ることなく、ぽつりと呟いた。
「…昔の夢を、見ていた…」
「おや。それは起こしてしまって申し訳なかったですね」。
骸はランチアの頬を指でなぞり立ち上がって背を向けた。
ランチアはやはりその背に目を向けることなく、いまだ夢うつつのまま、淡々と言葉を続けた。
「皆がいた。皆、…笑っていた」
過去を美化しているのではなく、本当に皆心から笑っていた。
其処は至上の幸福に満ちた世界だった。
「そうですか」
骸は話を聞き微笑を湛えたまま、部屋の戸に手を掛けた。軋んだ音をたてて、その戸は開く。
ランチアは骸に目を向けた。
「その夢の中に、おまえもいた」
戸の音が止んだ。
「おまえも、笑っていた」
「…そうですか」
骸は振り返らない。そして戸を開けたのに、一歩踏み出そうともしなかった。
「嘘だったのか?」
ランチアは骸を見つめたまま目を逸らさない。
「何がです…?」
「ずっと、演技してたのか?」
骸は答えない。立ち止まったまま、動かない。
「全部、演技で、全部嘘で、ずっとずっと、笑ってたのか?」
ランチアは問い掛ける。真っ直ぐ骸を見つめて、キツいそのまなざしで見つめて問い掛ける。
けれどその視線は、見る者が見れば、彼をよく知る過去の仲間達から見れば、縋るようなものだった。
「どうなんだ…?」
「好きなように思えばいい」
骸は一歩踏み出した。
「真実を語る必要などありませんから」
振り返らずにそれだけ言うと、部屋から出ていった。
戸はまた音をたてて、ランチアと骸を隔絶した。
扉越しに響く足音が遠ざかって消えていく。
軋んだ音の余韻も消え失せ、張り詰めるような静寂に部屋は満たされる。
胸に湧き上がる感情を持て余して、ランチアは拳を握った。
「………くっ…!」
殴り付けた壁が凹んだ。
「…馬鹿かオレは…!」
今更、真実なんて知ってどうする。そもそも、骸の口からでた言葉など、自分は信じられるのか。
「嘘でした」も、「本当でした」も、あの男の言葉など今更。
そっと、なぞられた頬を触れる。
変わらない指先。今も昔も、確かめるように愛おしむように少し、ためらうように触れてくるあの指先。
あの指先に、縛られている。
信じたくなる。確かに笑っていたのだと。演技なんかじゃなかったと。
そんな自分を、滑稽だと嘲笑うあいつがいるとしても。



あいつが泣いていることがあった。一度だけ。一人で。
『どうした…?』
ランチアが声を掛けても、骸は答えない。
『…寂しいのか?』
拾われてきてまだ数ヵ月も経っていない。いまだ慣れない環境に一人で寂しいのか。
『…違います…』
骸は涙を拭いながら首を振った。まだ俯いている。
『じゃあどうした?なんで泣いてる?』
ランチアは頭を撫でながら問い掛けた。
『優しいから』
『ん?』
『…貴方が、優しいから』
泣いてしまう。貴方が優しいから。泣いてしまう。
そう言って顔をあげた骸は、まだ泣いていた。泣きながら、笑っていた。
頬を濡らす滴を手の甲で拭い、ランチアに手を伸ばして、その頬に触れて、また笑った。
骸が笑ったから、ランチアも笑った。
涙の後を拭ってやって、笑った。



蘇る過去の記憶。
あの涙も、笑顔も、偽物ならいっそ全部偽物だといい。
自分の存在すら、今は六道骸の偽物だ。
嘘、嘘、嘘。
今更、本物を願う理由なんてない。




夢を見た。
今はもう手の届かない夢を見た。
夢を見たい。
哀しくも絶望もない。嘘も涙もない、そんな、覚めない夢を。